明智光秀ファンが今まさに三日天下を狙わんとするブログ

まずは明智光秀ファンからひとつだけ主張させてくれ!

「三日天下は正確には11日天下ですよ!」(だからなんだといわれても困るけど)

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あなたは三日天下を本気で三日間だったと思っていたりしませんか?
ちなみに、私は思ってました!(恥っ
その程度の明智光秀ファンが運営しております。いや、本当に申し訳ないm(__)m

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2007年1月21日

天海僧正(南光坊天海)について-その2

【研究】

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天海僧正の正体について。諸説あるものをいくつかご紹介。


【光秀天海説】

 光秀ファンの夢とロマンがつまった願望。小栗巣で落ち武者狩りという最期なんて嫌だ!という思いが生んだ幻想か?
 天海僧正は108歳で没したという説が一般的ですが、135才とかいう恐ろしいギネスブック並みの説もある。光秀が本能寺時点で55歳だったとする(これもあまり定かではない)と、もし天海だったら116歳で没したことになる。いずれにしてもちょー長生きな爺さんだ。
 また、光秀が天海だったとして、家康がどの段階でこの事実を知ったか、という問題もあるだろう。

(案1)最初から知っていた
山崎敗戦後に光秀が叡山に隠れていた(山崎敗戦後に隠れるとしたらここだろうと思う)のを最初から知っていた。ほとぼりが冷めた(秀吉死後)ところで、召還し右腕とした。
(案2)そもそも最初から匿った
神君伊賀越えが後の捏造と仮定。もともと本能寺のときに光秀が京から逃がした。(光秀は本能寺攻めがもう少し激しい戦闘となると踏んでいた→妙覚寺の信忠がもうちょっと抵抗すると思っていた)光秀と家康の間になんらかの密約があって庇護した。
この場合、春日局は天海推挙である説が成り立つ。
(案3)春日局から引き合わされた
早乙女貢の小説でのストーリーw私の光秀天海説刷り込みはこれで行なわれたのでこの説ははずせない(笑)。山崎敗戦後隠遁生活に入った光秀。天海として歴史の表舞台への返り咲くというサクセスストーリー(?)は春日局が家光の乳母に応募するところから始まる壮大な計画のもとに実行されていたのである。…なんてね。

 光秀天海説は過去に、TV番組『世界ふしぎ発見』で筆跡鑑定の結果「別人」判定をされてしまい、夢は散ったかに思われたが、そんな無粋な事言わないで夢は見続けましょう!
 ちなみに『時空警察』(笑)では光秀天海説だった。


【秀満天海説】

 光秀天海説に否定的な一派(一派?)に押されて「そんじゃ、コイツじゃん?」と白羽の矢が当たった(?)のが秀満。
 秀満についても正体(出自)が不明なので、定かではないが、天海光秀説で不自然な化け物のような(言いすぎ)長生きだった年齢のことはクリアできる。さらに、「秀満」が「光春」と混同したりされている不自然さももしかすると説明できるかもしれない。(注;私は高柳光寿説を押しているので「左馬介光春」→改名→「弥平次秀満」ではなく「三宅弥平次」→改名→「明智秀満」だと思っている。「光春」は別の人だよ、きっと!←根拠なし
 ただ、この秀満説が弱いのは…家康と秀満の関係、家康が秀満をどこまで信用したか、ということにかかっていると思う。光秀の威光があったとしても、秀満がものすごく実力ある武将だったにしても、家康はリスクを背負うだろうか?秀満を庇護することは、光秀を庇護した、とは別の種類のリスクを背負い込むことにならいないだろうか?家康はソレほどまでに明智家に対して何らかの負い目のようなものを持っていたのだろうか?
 謎すぎる。


【十五郎天海説】

天海という人物は実は一人でなく親子二代に渡って演じられたという説がある。(長生きだから)蝮の道三が一代で美濃を制したんじゃなくて二代に渡って美濃を制したんだという説に似ている(?)
ということで、ここで言う十五郎くんは光秀の長男(たぶん)。
かの信長びいきで光秀嫌い(?)のフロイス。そのフロイスに「貴族のようだ」と言わせたほどの美男子?であるところの十五郎くんが光秀とともに二代に渡って天海を演じたというのはちょっとステキ。
でも長男は阪本城で自害しないかな〜?(そんなこと言ったら秀満だって自害しろ、って感じですが)二男の乙寿丸くんという手もある。


【斉藤利三天海説】

 実際はそんな説を唱えている人がいるかどうか知りません。もしかするとどこかの歴史学者が研究してるかもしれない。だけど、私が個人的に言ってるだけです。
 だって、光秀が天海だと言われる理由のひとつの“春日局”。よく考えたら光秀関係ないジャン?いくら親しくしていたとはいえ、部下の娘の一人でしょ?(光秀が部下の家族を心配するほどのいい上司だったという証拠と言える書面がのこっているけど、今はそれを無視。)関係ないってばよ!関係があるとすればお父さんである斉藤利三の方が怪しい!
 そうじゃなくても私はこの斎藤利三を疑っているんですよ!この人が本能寺から何から全ての鍵を握っているに違いない!


【天野源右衛門説】

…ごめんなさい、私もよく知らないんですけど(苦笑)この人何者ですか?
いろんな光秀小説にちょこちょこ結構な頻度で名前が…。
でも、良く知らないんです(^_^;)誰かの創作キャラですか?それとも実在した人ですか?
誰か教えてください。(なんという手抜き)


【天海光秀おたく説】←これも私が作った説(笑)

 実はこの天海って人、明智光秀ファンだったんだよ!

「すげーよ、光秀ってさ、謀反とかしちゃってヒールっての?ってか、チョー凄くねぇ?」

とか思ってて、大好きだったんだよ、きっと!(え?)

 で、徳川側の戦略として「対豊臣」を印象付けるのに、『家康のそばにいるのって、もしかして光秀なんじゃねぇ?』って噂が立つのは有効である、と踏んだに違いない。

「光秀じゃないかって噂されてる?!言わせとけ!むしろ、どんどん言え!」

 だから、その噂を利用するためにあれこれ怪しい動きをしたんじゃなかろうか?!
わざと誤解されそうな行動とったり、出自をあまり語らなかったのも、光秀になりすまそうとしていた、とかさ。
 それでもって、明智軍記を書かせたのも、きっとこの人だって!!
 「なんか、適当にすごいこと書いておけばいいよ」みたいな。

 …根拠はないけどね!




その他光秀天海説に類似する光秀生存説

・光秀利久説
 光秀は山崎合戦のあと実は“千利休”として生きていたという説。
どこかの本能寺考察本に載っていたのだが、どの本だったか失念。後で探しておきます。
はっきり言って天海説よりはるかに眉唾物なのですが、それなりの理由もある。

懇意にしていた千利休と秀吉の関係がいきなりくずれたのはなぜか?

秀吉が「実は利久が光秀」だと気が付いたからではないのか。
もしくは秀吉が本能寺の黒幕であった場合、山崎の合戦後光秀を保護、千利休としてかくまい、政治戦略上利用したが、天下の形勢が安定してきて邪魔になったのでは?
こじつければいろいろ想像できて楽しい!

個人的にはこっちの方が天海説よりありそうな気がする。






以上、諸説列挙しておいて最後に個人的意見。

そりゃ光秀ファンなので光秀天海説は大好物♪
せっかく天下人になったっていうのに、小栗栖でさようなら〜なのは寂しすぎる!生きていて欲しいと思うのがファンてものでしょう。
何と言っても…せめて坂本城にて最期を迎えてほしかったのです。(T_T)

 
 

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おお!!!つみれさん!!【天海光秀おたく説】はすごいです!!絶対これだっっっ!!学会に提出しましょう!・・・と、ひとりPC前で感動している疾風です。
「光秀=天海説」は本で読んでいいぞって思いましたが疑問も当然あります。まぁ、天海は川中島の信玄と謙信のイッキ打ちを見たことがあるという謎な人物ですから、それもありなんじゃね・・・というかんじでした。しか〜し、この【天海光秀おたく説】は疑問がまったく無い!!(疾風がそう感じてるだけですが・・・(^_^;))これはいいですほんとに!!一生ついていきます!!←?

天海説から色んな説が出てきましたね、わくわくしながら見ました。個人的に光秀が天海として出てきたのはいち光秀ファンとしてあまり賛同できない部分もあります。なぜなら100歳以上の老いてる光秀を見たくない!!(実際に見たりしませんが…)秀満とかひろことかが死んでいるのに生きているのは光秀には耐えられないと思います。でも天海説にはロマンが詰まっていますよね
やっぱり光秀が土民に討たれるはずがないと思いますよ、剣術だってできる人だし、溝尾庄兵衛とか近臣がいたし

天野源右衛門は本能寺に明智軍が攻め入る前に軍の中に逃げ出す者がいないかとか京都の街に怪しい者がいないか調べた人ですよね、確か別名安田国継という名前ですよ。ちなみに安田国継で戦国無双にも出ています!! 武将辞典で知りました(^◇^)

おーいろんな説が!楽しいですねー。光秀が土民にってのはたしかに信じがたいところもありますよねー。ていうか信じたくない...。ところでkura様の安田国継って明智三羽烏って言われた人ですかー?

daizu様へ
明智三羽烏というのは正直言って初耳でした…光秀ファンとしてお恥ずかしいばかりです。やはりまだ高校生なのでみなさんとは知識に差がありますね。これからもっと精進いたします!!
ネットで調べたところ明智三羽烏と言われた一人みたいですよ!
ここで詳細が載っていましたよ
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x097.html


daizu様へ
再びすみません。。。
あの、さっき言おうと思ったのですが、忘れてしまって
明智三羽烏の読み方がよくわからなかったので教えて頂けないでしょうか?

神風疾風 様

でしょ?!でしょ!絶対ね、天海は光秀フリークだったんですよ!(笑)
「ここの地名か〜、ん〜、明智平ってつけちゃお♪」とか
「よーし、石灯籠に“願主光秀”って書いちゃうぞ〜エヘっ」
「いいなぁ、大御所って光秀公から接待受けた事あるんでしょ〜?チョーうらやましいよ〜」とか
家康に言っていたに違いないです(この天海キモイ)
私の中で天海僧正はファンキーな和尚さんになってますよ(笑)



kura 様

>秀満とかひろことかが死んでいるのに
それですよ!それ!!ソレがあるので、どうにも天海説にはムリがあるように思えてならないんですよね…。「おめおめと一人で生き残るのわけには…」ってなことになりそうな気がするんですよね〜。秀満が山崎に従軍していれば必死で逃がしたとかありそうな気もするんですが。
どうして秀満を安土に置いておいたよ、光秀…。

天野源右衛門さんは実在したんだ!ごめんなさい源左衛門さん。知らなかったよ…。しかもいたのね戦国無双に…こんどは引き抜いてでも部下にするよ!!侮れないな無双…。(笑)



daizu様

daizu様って信長の野望で明智軍団作っちゃうくらいだから明智家臣団詳しそうです〜!!
明智三羽烏…私も読み方知りたいです(笑)
みわとり????

光秀=天海はどうでしょうか・・。一般論ですが、光秀はあまりにも世間に顔が知れ渡っており、僧としても徳川家がかくまう事は難しいかと思います。ただし、明智一族が絡んでいても全くおかしくないでしょうね。
私も家光は家康とお福の子だと思っています。
ちなみに豊臣秀頼は石田三成と淀君の子だと思っています。
↑何の根拠もないですが。

タンロンさん 様 こんばんは!
レスが遅くてごめんなさい。いろいろやっていたらいつの間にか時間が…。

光秀=天海はまぁ、よくよく考えると『無い』のですが(笑)
最初に光秀ファンになった早乙女貢の小説・明智光秀が天海説の小説だったので洗脳されてしまいまして(笑)
せめて、せめて坂本で最期を迎えてくれていればこんな妄想にとりつかれたりしなかったのに、とつくづく思います。
家光は、怪しいですね〜。
家康の子でないにしても、前になんかのテレビドラマでやっていた家光が死産したのを隠すためにお福の生まれたばかりの子を身代わりにしたんじゃないかという説が好きだったりします。

>豊臣秀頼は石田三成と淀君
これも良く言われるんですが、どうでしょうか…。私は信長ファン時代に“秀吉は仇をうちしてくれたいい人”とう認識があって、初めてこの説を聞いたとき、そんなんじゃ秀吉がかわいそうだ!!と憤った記憶があります。でも、他に子供がいないのでよくよく考えるとやっぱりあやしいのかな?とか思いますけど。

 偶然にこのコーナーを拝読いたしました。いろいろとおもしろい質問や答えが載っておりますね。私も一言いいですか。まず明智光秀の三日天下といわれたゆえんから少々。
1.朝廷より征夷大将軍の宣下を受けてからわずか三日後の歿によることからと言われています。明智光秀は本能寺で織田信長を討って天下を奪ったものの、十日あまりで羽柴秀吉に討たれたことから、天下取りがきわめて短かったことを称して用いられるようになりました。信長を倒してから三日という意味ではありません。
2.朝廷より武家の最高権威征夷大将軍の宣下(天皇が言葉を述べること)を受けてから、わずか三日後のことである。いわゆる「光秀の三日天下」とされる所以であるらしい。
3.京都で政務を執ったのが十日から十二日の三日間であったため、三日天下と呼ばれた。征夷大将軍・太政大臣、関白。この中で一番低い位が征夷大将軍。明治時代以降、この職は廃止。
そしてもう一つ「明智三羽烏」。「あけち・さんばがらす」と読みます。実際分かっていて「みわとり」なんて書いたのでしょうか。オモシロイ方ですね。最後の字はカラスと読み、とりではありません。文字の違いに気がつきますか。それから明智三羽烏について一言。
 本能寺の塀を乗り越え、寝所の間の大庭に乱入したのは、蓑浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛の三人であった。信長は白絹の単物を召し、十文字の鑓で三人と競り合った。初めは矢を射ていたが弦が切れ、弓を捨て、鑓を求めた。本能寺急襲のときの一説です。この三人を称して「明智三羽烏」と言います。「信長公記」「翁草」「明智軍記」「常山記談」等軍記物にそのときの様子がこのように記されております。また、天野源右衛門というのは、安田作兵衛のことで、明智家が滅亡後、秀吉の探索から逃れるために改名した名です。

古川九兵衛様

せっかくコメントいただいていたのにお返事が大変遅くなりまして申し訳ありません。
ちょっと忙しくしておりましてなかなかブログの更新が出来ずにおりました。すみませんでした。

>征夷大将軍の宣下を受けてからわずか三日後
あ!それありましたね。すっかり忘れていました(^_^;)私はその説は確かNHKの歴史番組で見たように記憶しています。

>天野源右衛門というのは、安田作兵衛
おぉ!そうだったんですか!謎が解けた(笑)
天野源右衛門の名前は明智光秀関連の小説でしばしば名前が出てくる人で、忍者だったり、縁者(光秀の側室の家族)だったりいろいろな小説ごとの妄想(?)設定で出てくるのでいったい何者なのかと不思議に思っていました。

軍記ものって調べれば調べるほど面白いですね〜。書かれた年代とか順番によっていろいろ変化していたり…一度じっくり研究してみたいです。
ちなみに、紆余曲折を経てやっと手に入れた「明智軍記」…まだ全然読んでいません…。ちょっとは読まないと…。

ぜひまたコメントしてください!
今後はこんなにお返事が遅くなることはないと…思いますm(__)m

 教えてください

 通説によると「本能寺の変」で天下を取った明智光秀だが、天王山の戦いで羽柴(豊臣)秀吉軍に敗退、一時勝竜寺城に立てこもる。同夜居城の坂本城に逃げ帰る途中伏見小栗栖にて落ち武者狩りの土民に襲われて落命。死亡が推定されたのは六月十三日。その二日後に明智家一族は滅亡する。
 当寺の過去帳には、「初代坂本城主 征夷大将軍明智日向守十兵衛光秀公 天正十年六月十四日寂 享年五十五 秀岳宗光大禅定門」とある。

 戦いという斬り合いの最中ならばともかく、戦国一の知将といわれた光秀ほどの武将が、敗退途中に一介の土民によってあっけなく殺害されるとはなんとも情けなく、悔やまれることであったと思われる。
 勿論光秀にとっては、自分が殺害された後のことは知るよしもなかろうが、たったそれから二日後、明智家一族までもが滅亡となったのであるから尚更である。

 この時に辞世の句として残されてはいるが、果たしてこれは実際に光秀本人のものなのでしょうか。そこのところを知りたかったのですが。今までにはっきりとした史料を見たわけでもなく、確かなところまでは分かりませ。よって推測となってしまうのですが、光秀が敗走途中小栗栖で殺害されるという切羽詰まったこのような状況の中で、句を残すほどの時間はなかったはずであろうと思われのですが。

 それとも戦に出陣する時などはこのようになることを察し、事前に各武将は「辞世の句」のようなものを書き残しておいたのでしょうか。今でいう「遺言状」を残しておくというたぐいのものなのかどうか。そこのところを知りたく、いろいろと史料を見ましたがそれに対して記されている史料には今のところ行き当たりません。
 歴史を満足に知らない私にとって、このような一つ一つの疑問点が多大に出てきます。よってアドバイスならともかく、問い詰めた指摘はゴメンナサイ。
 
 また光秀の享年は五十五歳と言われているが、これもこの「辞世の句」の中にそう記されているためにそのようにいわれているのでしょうか。
 光秀の生誕は享禄元年(一五二八)とあるが、それはすでに分かっているからそう記されていた訳ではなく、辞世の句から逆にそう割り出しただけなのでしょうか。
 出生時が分かっているから「山崎の合戦」で亡くなった時が五十五歳というのではなく、「辞世の句」により、五十五と記されていたから逆にそう計算されただけに他ならないのでしょうか。

 そのような疑問の中、光秀の辞世の句に対し、次のようなことが記されている史料がありました。「自刃にあたって溝尾勝兵衛に辞世を託している」、と。託しているということは、持っていた辞世の句をその場で渡したと言うことなのか、それとも、このようにしたためてくれということで、伝えたと言うことなのか。
 一応その史料を次に書き添えてみました。いろいろな史料を見ておりますので、書きとめておいたと言うだけで、どの史料にあったのかは覚えておりません。
 勿論光秀が、その句を考えている時間があったのかどうかは別としてです。通説に拠りますと、刺された後それほど間をおかずに亡くなっているのですから、まずは句を考えている時間はなかったと思われます。

史料
 「山崎の合戦」に敗れた光秀は、再起を期して近臣五、六人と夜陰に乗じて勝竜寺城を脱出、大亀谷を抜け坂本に向かう途中、この地で落武者狩りの土民に竹槍で突かれ深手を負い、溝尾勝兵衛の介錯により自刃した。時に、天正十年(一五八二)六月十三日、光秀終焉の地である。
 「豊鑑」(竹中重門・秀吉の軍師、半兵衛重治の子の著)は、この時の状況を「里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきつける槍、明智光秀の脇にあたりぬ。されど、さらぬ体にてかけ通りて、三町ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり」と描写しています。
 また、「明智軍記」には、自刃にあたって溝尾勝兵衛に託した辞世として
順逆二門無シ 大道心源二徹ス
      十五年ノ夢 覚メ来テ一元二帰ス 明窓玄智禅定門

とし、光秀は五十五歳であったとしています。
 すなわち、「明智軍記」(光秀の事蹟を編年体に時代の情勢と関連させて叙述した軍記で、元禄時代の成立)には唯一年齢が明記されており、それによると享禄元年(一五二八)の生まれで、天正十年(一五八二)死亡の五十五歳となっております。
 溝尾勝兵衛は、光秀を介錯した後、その首を鞍覆いに包んで藪の中の溝に隠し、居城の坂本城に向かった。

 不明な点が多い光秀にとって、この歳も実際の歳でなかったとすれば、鵜呑みにはしないほうがいいということなのでしょうか。
 このように「辞世の句」を本人がしたためたのかどうか分からないのですが、同じような例として、浅野内匠頭が即切腹と沙汰された時もそうです。
 内匠頭においては、知るところによると本人の句ではなく後になり別人によって書かれたものが残されている、という記憶があったのを覚えていました。
 今回そのことを再確認したく改めて史料を探したところ、やはり次のような記述がありました。

 この辞世の句は、切腹に立ち会う検使の一人、副検使で目付けの多聞伝八郎の「多聞筆記」のみに登場するだけで、お預け、切腹の場になった田村家の「田村家記録」やその他、いわゆる遺書遺品の中にも見られないとあった。
 このことから、後日長矩の意を汲んで多聞伝八郎が加筆したのではないのかと言われている、と。切腹は元禄十四年三月十四日。赤穂浅野家断絶。
 ※風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん  浅野長矩

「本能寺の変」より四百二十五年を経た現在、光秀に興味のある                      古川九兵衛より

前回の質問の件につきまして、いままでにそれらしく歴史に興味のあるというかたに、尋ねたりしておりました。しかし、そのような「辞世の句」があるということは知っているが、光秀本人が書いたものかどうかなどということは考えたこともない、と言われておりました。なんの疑いもなく本人のものだと思っていた、という方が100パーセントでした。
 それで今回、ホームページを見ておりまして、あなた様はいろいろと本を読んでおられるような方だと思い、ひょっとすると今までに読んでおりました本の中に、そのようなことについての何かが書かれていたものがあったのかどうか、お尋ねしてみました。
 このような内容は、きっとどなたにとっても必要のないことなのかもしれませんが、まとめものをしている私にとりましては、知っておきたい内容でしたものですので。 失礼いたしました。

いろいろと調べ物をしており、久しぶりにこのサイトを見てみましたが、その後投稿している方はいないようですね。皆さんは明智光秀はきらいなのかな。

 明智光秀には直接関係はありませんが、世に「明智三羽烏」と称された古川九兵衛の末裔として、当サイトを使わせていただきました。これは今から三百五十余年前に作成された古川本家の古文書系図の一部をひもといたものです。九兵衛に興味があるのでしたならば目を通して見てください。

 古川家史実誌
       古 川 履 歴 神 佛 霊
   前文
美濃国稲葉山城主斉藤龍興ノ幕下ニシテ 明智城明智十兵衛光秀ト云フタリ 本姓ハ土岐光秀ナリ 此ノ明智光秀ノ三槍ノ一人古川九兵衛
天正十年夏陣ニ光秀ハ哀レヤ山崎合戦ニ鬼才秀吉ガ馬ノ蹄ニ一蹴サレタリ 其ノタメニ豊前ノ国中津ニ足ヲ止メ ソノ後古川九兵衛常陸ニ来タリ 本村住ス 

  古巻(文)書 石神長松院     印 
 久慈郡世矢村大森 手縄坪墓北浦
古川家代々神佛位巻物
               
       ※以下歴代当主等系図略 現在十五代目継承 
   「古川履歴神佛霊」前文における推測
 「古文書古川履歴神佛霊」は、古川九兵衛を祖とする古川本家が在する「常陸の国石神城石神長松院」にて作成され、後代々に亘り記述し残されていたものである。その前文における推測をした。
 長松院は今から五百二十余年前、「本能寺の変」より九十五年も前の一四八七年の開山である。

 まず「稲葉山城主斉藤龍興ノ幕下ニシテ」とある。「明智軍記」などによれば明智家は戦国大名斎藤道三の下に仕えていたと記されている。そのようなところからそう記述されたのであろう。
 一五五六年(弘治二年)九月、明智城は道三の長男義龍により攻められ落城。明智家は道三側についていたため、後に義龍に荷担しなかったということから攻められる。

 よってそれから五年後、義龍病没により受け継いだその子龍興の時には、見せしめのために、と徹底的に破壊されたという明智城はすでになかったはずである。
 古川家古文書には「斉藤龍興の幕下にして」と記されているが、歴史上の年代からみて間違った解釈の仕方ではないのかと思われる。
 「長良川の合戦」の時、明智家は道三側に着いていたとある。それから見ても「斉藤道三の幕下にして」とされなければならないのではないか。

 この前文において、光秀は「馬ノ蹄ニ一蹴リサレタリ」、として表現されている。光秀は「山崎の合戦」で敗退し、居城坂本城への敗走途中に土民の槍によって落命したとされている。
 そのことは改まって言わずとも、すでに歴史上承知のことと思われるが、なぜそのような書き表しかたをしたのか。
 それにおいて、当時は戦略武器として、そしてまた交通手段としてのすべてにおいて馬は貴重とされていた。そこで、その馬を引用し、戦に負けたということに意味合いをかけ、「足蹴にされた」という意でこの表現法を用いたものと解釈した。

今から三百五十余年前の明暦二年(一六五六)、「常陸の国石神城石神長松院」にてこの古川家古文書が作成されたとき、光秀公の無念さに対しその意を考えてこのような表現の仕方をしたとされたのならば、敗者に対して気遣う、当時の長松院住職のその文章表現力の豊かさに、まさに感服する次第である。

 また「ソノ後古川九兵衛常陸ニ来タリ」、と記されているが、遙か遠い「豊前の国」からどのようないきさつがあってこの「常陸の国」へ来たのか。
 当時の九兵衛からの経緯からみると、浅野幸長致仕以後、新たな主君に仕えていたとは考えられず、武家の社会における「常陸の国」への国替えに伴う氏族の移動であるとも思われない。    

 よって過去の歴史からみると、そうして個人的に訪ねていく経緯の中には、案外親類知人が在しているところを頼って行っているのが大半である。
 九兵衛も、そのように知り合いを頼ってこの「常陸の国」へ来たのだとすれば、この世矢村近辺には、すでに頼れる人物がいたのだろうか。

 だとすると、当時古川の姓を名乗っていた親戚か、あるいは知人が近隣にいたのかどうかである。しかし今から百二十年くらい前、十三代目となる祖父古川要三郎が生まれた頃あたりまでは、古川の姓を名乗っていたのは本家だけしかなかったという。
 だが古川姓を名乗っていなくても、嫁いできた女性や別姓の親戚がいたとすればまた話は違ってくる。

 とにかくこの古川家古文書の中には、「常陸の国」へ来たというその経緯だけしか記されていない。そのためにその理由までは到底推測することはできないし、解明は不可能である。

 古川九兵衛を祖とする末裔は、全国各地に在していると思われる。しかし、九兵衛を祖とする直系の系図は、古川本家においてのみ残され続けてきたものであり、たとえ末裔ではあれ、その経緯は各諸氏においても解明できない経緯であると思われる。

 だが、世矢村に居を構えた古川九兵衛を直系の祖として以来、後胤とする子孫として現在の古川本家に受け継がれているということは、在住した理由はどうあれ、その後の経緯は残されている系図や墓石により間違いないものとして解釈できる。

 実際の古文書系図を私は見たことはないが、九兵衛に興味のある諸氏には、少なくもこのような内容ではあれ、知っていただければ幸いである。

 次回は九兵衛の「本能寺の変」以後の足取りだけの経緯を照会したいと思います。

管理人の「つみれ」さん。せっかくこのよなページを立ち上げたのに、その後投稿者が少なくて何か寂しい気がしますね。「明智三羽烏」と称されるような先祖をもち、光秀に興味があり、偶然にこのサイトに巡り会いました。
 以前投稿してくれていた方々はどうしたのでしょうね。私も10ヶ月ぶりくらいにこのページを立ち上げてみまして、その後全然投稿している方がおりませんので、寂しくなりました。
 今回、このページを「お気に入り」に入れておいて頻繁に見ていきたいと思います。そして明智光秀には直接関係はありませんが、その三羽烏と称された古川九兵衛のその後を少しずつ掲載させていただきます。本能寺急襲の時、このような功労者がいたと言うことだけでも知っていただき、それも歴史の一端として頭の片隅の方にでも残していただければ嬉しいです。

「明智三羽烏」と称された安田作兵衛と古川九兵衛
                どちらがリーダー格か
    
始めに記述しておくが、ここにおける内容は、個人推測により書き上げたものであり、そしてまた、知識者・学識者による校正等の依頼をしているわけでもない。
 よって文字変換時の誤字や文章的表現構成等その他に誤りや不明瞭さもあるが、それらにおいてはご理解をいただきたい。
 今後このページをお借りして掲載させていただきたいと思いますが、以後からも同様のご理解をお願いいたします。そしてまた、低次元においての個人推測でありますので、知識者である諸氏の質問はご遠慮ください。

 同じ「明智三羽烏」と称されているとはいえ、安田作兵衛と当家の祖古川九兵衛とではどちらがリーダー的立場であり年長者だったのか、その年齢差等における推測をしてみた。それに対し、次のような史料に目を止めた。
 それは本能寺急襲の際、光秀に呼び出され、先鋒を仰せつかったのは安田作兵衛の方であるということ。そのときのことが次のように記されている。

史料
 やがて光秀の軍勢は老ノ坂を越えて沓掛というところに至り、そこで小休止として弁当を取らせた。本能寺襲撃に備えてのことだったのであろう。また、こうした動きを本能 寺に通報するものが現れることを警戒し、家臣の安田作兵衛を先鋒大将として先行させ、通報する者があれば即座に切り捨てるように命じていたのである、と。

 ということは明智家一族、強いては家中家臣共々の一大運命をかけた「本能寺の変」という重大状況の折り、やはり武芸に秀でた者か信頼を得た者が先に呼び出されるものと思われる。
 そのようなことを考えると、古川九兵衛よりも、先に先鋒大将を仰せつかった安田作兵衛の方がリーダー的立場にあったものと思われる。
 それにしてもこうして記述した文章を、ただ「安田作兵衛はリーダー的立場にあった」と読み流していればそれほどにも感じないが、本能寺急襲の際明智軍は一万三千の兵がいたとされている。その中のトップクラスとして安田作兵衛は君臨していたのである。
 そしてまた古川九兵衛もその中の一人であり、安田作兵衛に劣らず「明智三羽烏」と称されるほどのリーダー的立場にあった武将だったのである。
 たとえその「変」がどのような理由で起こったにしろ、歴史上重要な人物として名を残した信長と、直接に渡り合ったほどの武将古川九兵衛の子孫として、その勇姿偉大さに対し絶大なる敬服をもって賞賛したい。
 「明智三羽烏」と言えば、とにかく戦上手と言われた明智が兵一万三千の中でのトップクラスだったのである。

「明智三羽烏」と称された古川九兵衛のその後の足取りを追って

「古川家史実誌」は、当古川本家に残されている古文書「古川履歴神佛霊」に記されている系図の流れや、明暦二年から、本家北浦墓地にて代々に残されている墓石の年代を主として推測していったものである。
 常陸の国世矢村に在するようになってからの古川九兵衛を初代として、九十五年後、五代目夫婦が亡くなった頃からの墓になる。
 この墓において、現在それ以前に歿した先祖の墓石は見あたらない。そのように九兵衛を祖として四代目までの墓石を確認することはできないが、平成の現在に至るまでの少なくも三百五十年もの歳月を有する墓は、大きな木や林に囲まれ、昔ながらのいかにも古い家柄という自慢の墓である。
 現在墓には水子を除き十四基の墓石がこけに覆われて立ち並んでいる。小学生の頃には、倒れていた墓石が結構あったのも見ているし、覚えもある。それらはまとめて脇に寄せられてあった。
 現代のように、各家ごとに区画整理されているというような墓ではない。本家だけが所有する墓であり、それも本家の屋敷からは五百メートルと離れていない所にある。
 一里四方は古川家の敷地だったと言われる当時の屋敷の広さから考えれば、その墓も屋敷内の一角にあったのだろうと思われる。

 本家の祖として古川九兵衛という先祖がいたということは聞かされてはいたが、その頃にはほとんどと言っていいくらい、興味を持っていたわけではない。だからその中から、九兵衛の墓石を探し出してみようと思う気持ちは当然なかった。
 古川家の歴史ではあれ、それを調べてみようと考えていた記憶がない。それは、やはり幼少という年齢的なものによるものと思われる。
 昭和四十八年(一九七三)三月、二〇〇八年の今から三十五年前、本家十四代目が現代風の「先祖代々」としての墓石を建てた時に倒れていたその墓石を供養し、すべてをまとめて埋め、基としたという。だからその墓石も埋めることもなく再建してくれていれば、もっとたくさんの墓石が並んでいたはずである。
 そのようなせいもあってか、墓石を確認することのできなかった古川九兵衛においては、古川家古文書にあるように、「明智光秀三槍の一人」として古川九兵衛という武将がいた、ということを記しておいた程度である。
 今になってみれば中学三年生十五歳の頃、「古川家覚え書き」をまとめ始まっていながら、埋められるそれまでの間に墓石にまで興味を持つことのなかったことが何とも悔やまれる気持ちである。
 子供の頃から、彼岸や盆の時ばかりではなく、今現在普段の時でも墓参りには行っている。今でもそうしているのは、親のしていたそのような姿を、そのままに受け継いでいるからであろう。その頃に、祖となる九兵衛の墓石があったのかどうかを知りたかったものである。
 たとえそのときはそれほどに興味を持たなかったにしろ、案外子供の頃の記憶の中に残ったかもしれない。何しろその頃の当時、墓とはいえ田舎では遊び場所の一つだったのである。

 今回ここに掲載させていただいているのは、古川九兵衛における経緯を主としてまとめたものである。その都度都度に公的各史実誌史料文献等を参考とし、推測している。だがそれも、年代的に順序を追っているとは限らず、内容的に前後する事柄もある。
 また再確認の意味で、同様の解明文を再度に亘って記述している項目も随所にある。だからこれらの文章を取り除き、古川九兵衛のみの史料だけにすればもっと短い著書としてまとめられたかもしれない。
 しかし、所々しか分からない九兵衛の経緯でしかないために、各関連武将とのつながりが不明となり、推測するにおいても理解しがたくなる。できれば、逆にその推測史料をもっと多大に掲載したいほどである。

 こうした史料解明にあたり、各県の歴史館にある史料を取り寄せたり、各著者が出版した著書を参考にしたり、としている。だから歴史的に権威のある先生方の著書ばかりを参考にしているとは限らない。
 いろいろな著書からを参考として推測記述はしているが、とにかく四百数十年という以前の頃からである。参考史料にも曖昧さがあり、どちらをとればいいのか納得しかねる史料もある。
 そのような中、こうして「本能寺の変」以後の古川九兵衛においての経緯を一通りまとめあげたが、それはあくまでも確実性のあるものではなく、単なる筆者の低次元レベルの推測論でしかない。
 よってそれは正しい解明ではなく、そのままに鵜呑みにしていただかないよう、それをまずは記しておきたい。

 歴史においての知識もなく、文章執筆においても満足にまとめることのできないような無知な著者が、古川九兵衛の末裔ということでその経緯を残したいがため、低次元の中でまとめていたのだろう、と思い、半ばあきらめながら捉えていただきたい。
 しかし無知なながらも、いろいろな方向から検討し、このようであったのかもしれない、という推測結果を元にして記述はしたつもりである。まっ、それをいずれ低次元というのであろう。

 文献上に残されている祖古川九兵衛を推測する三項目の概要

「翁草」より
 「山崎の合戦」後、この三者は武勇もすぐれていたために、やがて諸家に召抱えら れることとなる。三者は数年後、京都で再会している。
 天野源右衛門と改名して立花左近将監宗茂(一五六七〜一六四二)に仕えて京都の旅宿にいた安田を、紀伊の浅野幸長に召し出された古川九兵衛が訪ねて来た。
 そこへ偶然羽柴秀長(一五四〇〜一五九一)家臣を経て同じ紀州浅野家に仕えている箕浦大蔵丞もやって来た。本能寺以来、久々の対面ということで安田がもてなし古話に花が咲いた(以下略)・・・

「本能寺の変」において、「明智三羽烏」と称されて歴史上に名を残した武将祖古川九兵衛ではあるが、当時のことが記されている文献は前述「翁草」に記されているように、どの史料においても、次ぎに取り上げた三項目くらいの事柄だけしか残されていない。

 たとえどのように些細なことでもいい、とそのような気持ちで九兵衛の名が記されている史料を探し求めた。しかし結果としてはこのような内容の史料以外には調べ出すことはできなかった。
 そして、たったこれだけしか記されていない史料文献を元に、古川家の祖である古川九兵衛の「本能寺の変」以後、「常陸の国久慈郡世矢村」までへの足取り経緯を推測することとした。
                    
 一.「本能寺の変」において「明智三羽烏」と称され
             武将古川九兵衛は歴史上に名を残す
 二.後に九兵衛は、浅野幸長に召し出される

 三.京都において「明智三羽烏」は再会する

 「本能寺の変」や「山崎の合戦」は勿論いつだったのかは分かっている。しかし、浅野幸長に召し出されたとされるのはいつの頃であったのか、京都で三者が会っていると言われるのはいつだったのか、その年代の些細なかけらさえ記されていない経緯を、推測される年代の流れの中に取り込み、あらゆる方向からの模索が始まった。 

 ※年号の区切りは一年ごとの計算とした。年の途中から翌年の途  中までで正味一年であっても、翌年にまたがった場合二年と   し、その年代毎で計算している。
 ※織田信孝時代、上田城主としての九兵衛に関しては、鈴鹿市の  考古博物館による  と推測は不可能とのこと。明智光秀家臣  時代においても「明智三羽烏」というだけで、その明確な経緯  は分からない。
  そのために古川九兵衛が仕えたとされる織田信孝や明智光秀へ  の仕官年代よりも、「本能寺の変」以後の浅野幸長時代や「明  智三羽烏」が京都にて再会したとされている頃を一番の推測項  目として調べている。

 そうした史料を調べていて思うには、まず九兵衛等が「明智三羽烏」と称されるようになったのは、光秀への家臣時代からそう言われていたのではなく、「本能寺の変」の時に信長と渡り合った三者、ということで、後になってからそう言われるようになったのではないかと思われる。
 

  古川九兵衛の幸長仕官とされる推測年代

 推測にあたり、幸長が父長政から家督を譲り受けたのは「関ヶ原の合戦」後、というように解釈した。次にあるように、実際そのようにとらざるを得ない表現の仕方である。

 「関ヶ原の合戦」後、父浅野長政より家督を譲り受け紀伊国和歌山藩主となる

 そして、ほとんどの史料がこのような表現にての記述である。そのため、執筆時にはその内容に何の疑いもなかった。よって「関ヶ原の合戦」後に幸長は家督を譲り受けた、とそのままに解釈し、古川九兵衛が幸長に仕えたとされる年号や歳などを推測していった。

 また、なぜ改まって歳に換えての推測としたかというと、西暦何年の時にこのようなことがあった、このようなことが起こったのは何年の時だった、という年号よりも、九兵衛が何歳の頃だった、と記した方が覚えやすかったし目安になりやすかったからである。
 また、同じ「明智三羽烏」と称された安田作兵衛等とのかみ合いの中では、年齢に換えての方が推測しやすかった。読んでいれば理解できると思うが、そのために年号ばかりではなく、歳に換えての記述とした。
勿論、歴史に精通しており、年号のほうが分かりやすいという諸氏は別である。

 「山崎の合戦」以後「翁草」にあるように、古川九兵衛は浅野幸長に召し出されたとある。
 幸長の生存は天正四年(一五七六)〜慶長十八年八月二十五日(一六一三・十月九日)。享年三十七歳。

 もしこの九兵衛が「合戦」後の直ぐに幸長に召し出され、歿するまでの三十七歳までを仕えていたとする。
 すると九兵衛は、当時(一五八二)まだ六歳だった幸長に仕え、以後幸長が歿するまでの三十一年間の仕官ということになる。
 
 古川九兵衛と同じ「明智三羽烏」と称された箕浦大蔵丞も浅野幸長に仕えた、とある。
また大蔵丞は、「関ヶ原の合戦」にも参戦しているというのだから、九兵衛よりももっと早い時期に仕えていたということになる。  

 しかしこの両者は、当時この六歳くらいと思われる幸長に仕えたというのだろうか。勿論仕えなかったとは断言できないが、「召しだされた」というように、禄を支払ってまで仕えさせるには幼少という年齢から見て疑問に感じられる。
 それに、まだ親の長政が三十五歳くらいで采配をふるっているその時期に、嫡男とはいえ、六歳くらいという幸長に家臣を持たせていたとは思われない。普通は大体が元服してからになるのであろう。

九兵衛は幸長に召し出されたとされているのだから、父長政から家督を譲り受けてからの幸長の代になってからか、あるいは幸長自身が独立して家督を持ってからだと思われる。実際それが普通であろう。
 しかしこの推測の段階では、何歳になるのかは分からないが、各史料にあるように「戦後」に家督を譲り受けてから、として進めた。

 そして、まだ六歳くらいの幸長には召し出されることはなかっただろうということを考えると、古川九兵衛は「山崎の合戦」後、直ぐに幸長に仕えたのではなく、長政より家督を譲り受けるまでの数年は過ぎていたはずである。それは何年の頃になるのか。
 それについて、次のような史料もある。

 幸長の父長政は慶長五年(一六〇〇)秋の「関ヶ原の合戦」では家康の子の徳川秀忠に属 し、戦後は嫡男幸長に家督を譲って隠居した。長政は慶長十六年(一六一一)六十五歳で 歿。

とある。ここでも「戦後は嫡男幸長に家督を譲って」とあるのである。
 ということは、「古川九兵衛は浅野幸長に召し出された」というように、はっきりと幸長の名を記しているというところから見れば、親の長政が隠居して家督を譲り受けた「関ヶ原の合戦」以後ということになる。

 前記の内容からみて、長政(一五四七〜一六一一)は一六〇〇年の「合戦」後に幸長に家督を譲り、亡くなっている。

 そのように家督を譲り受けてからならば、幸長が何歳の頃に仕えたとしても不思議ではない。一六〇〇年のそのとき幸長二十四歳。
 ということは、古川九兵衛が幸長に召し出されたとあるが、それは「山崎の合戦」後すでに十八年は過ぎていたということになる。

 まずは前述のように「関ヶ原の合戦」後に幸長は家督を譲り受けた、という表現のままに推測していった。しかし各史料が取り上げているこの年代では、後の推測にあわなくなってくるのである。

各史料文献等による 祖古川九兵衛の概略経緯

 「山崎の合戦」後、古川九兵衛は浅野幸長に召し出された、とある。だがどの史料にもその仕官された年号や年数は書かれておらず、ただ「召し出された」ということだけしか記されていない。
 そしてまたそれは「山崎の合戦」後、との記述のため、当初「合戦」以後当時の、間もない頃からの仕官であったものとして推測が始まった。

 ※以後当書において存命著作者の実名は避け、◯印にて記述した。不明文字においても同様とした。主に使用した著書名は明記せず「史料一」「史料二」とした。
 前刊「古川家史実誌」を編纂当時、古川九兵衛の年齢や経緯を推測するにあたり「史料一」を参考とした。そして一六〇〇年の頃に六十歳で歿したと推定した。

 ※「史料一」には安田作兵衛の享年四十二と記されており、今回この「祖・古川九兵衛」を調べるのに併せて使用した「史料二」には、「本能寺の変」当時二十一歳ともある。そして各史料には作兵衛は病気にての歿とされている。

 古川九兵衛は浅野幸長に召し出されたとあるが、以後はどの武将に仕えたかは記されていない、というのもまた大半の史料内容である。九兵衛は明智家が滅亡となった「山崎の合戦」以後不明となっているが、幸長致仕以後も再び不明となっており、ここにおいて祖九兵衛は公的歴史上の文献から完全に消え去ることとなるのである。

 「山崎の合戦」以後、経緯が絶たれるということは、秀吉の探索から逃れるばかりではなく、その後武士から離れたのではないか、と思う考えもあった。
 しかし、後に幸長に召し出された、とある。ということは、それまでの経緯は不明であったにしろ、その十八年の間どこかの武将に仕えていたとも思われる。
 まるっきり武士から離れていたのなら、それほどの歳月が過ぎてから、改めて武将に仕えるということはないのではないかと思われる。
 そうした流れの中で幸長に仕えるという機会があったのであろう。

 またそれまでの間、どこかの武将に仕官していたのならば、当時幾度もの戦があったものとも思われる。そのたびごとに古川九兵衛は勝ち残ってくることができたのであろう。それがために九兵衛後胤の十五代目子孫として現在の本家が在籍しているのである。
 本家十五代目は私にとっていとこになるとはいえ、現在の我々がこうして生存しているということは、戦国時代における九兵衛の武運によるものであり、よくぞ生きながらえてくれた、というただそれだけの感慨無量の言葉だけである。

 明智光秀の「三羽烏」と称される家臣だった古川九兵衛の子孫が、「本能寺の変」以来四百二十五年を経た現在、こうして在しているということは、これも一つの歴史なのであろう。
 古川家子孫の繁栄を願い、武将九兵衛は戦国時代といわれた戦場の中を、ただひたすらに駆け抜け、生き抜いてきたのである。

 だが九兵衛は幸長致仕後再び不明となり、史料からその足取りは途絶えている。そうして二度目に不明となった九兵衛は、その後「常陸の国」の石神城石神長松院にて作成された古文書により次のように記され、その文献は残されている。

  豊前の国中津ニ足ヲ止メ、
       ソノ後古川九兵衛常陸ニ来タリ 本村住ス

 「本村住ス」として記されている所在は、現在の古川本家が在する旧住所久慈郡世矢村を指している。そして古文書にある北浦墓地という墓は、現在も使われている本家の墓である。
 九兵衛のその世矢村に在するまでの経緯は、幸長致仕後、不明とされてからのその後の移動経緯の足取りとつながってくるようにも思われるのである。

 謀反人とされた明智光秀 その家臣古川九兵衛
  「明智三羽烏」と称された九兵衛のその後の経緯を追って

 光秀は、本能寺において信長を自害に追いやったが、「山崎の合戦」にて大敗。よって古川九兵衛は謀反人の家臣となった。それも「明智三羽烏」と称されたほどの武将のため、秀吉の探索から逃れざるを得なくなったことと思われる。

 敗者に対し「平家狩り」や「豊臣狩り」と言われるようなものがあったように、秀吉により「明智狩り」と言われるようなものがあったのかもしれない。そのためか「関ヶ原の合戦」後、浅野幸長に召し出されるとされるまでの間、古川九兵衛の消息は史料上全くつかめない。

 そうして不明となった当古川家の祖、武将古川九兵衛の消息を追い始めた。「山崎の合戦」で明智家が滅亡してから以後の経緯である。
 それは「明智三羽烏」としての一人、安田作兵衛のそれらしく残されている史料を参考としての調べであった。

 作兵衛においては、歿するまでのその経緯が各史料により幾分かは残されているのである。ここにおいては、その一通りとして記されている史料内容を参考として調べていった。

 作兵衛を推測するのに使用した「史料一」には、享年四十二歳と記されているだけであったが、「史料二」には「本能寺の変」当時二十一歳とまで記されている。
 前刊「古川家史実誌」を編纂当時、手元にある史料で安田作兵衛の享年が記されているのは「史料一」だけしかなかった。

 作兵衛の経緯をいろいろと調べたが、そのすべての史料文献等における歳は不明となっている。どれにおいてもその歳を記述している史料はなく「史料一」以外の著書からは探し当てることはできなかった。

 その中で、唯一この著書だけがその享年を書き出していた。古川九兵衛の経緯を調べる中で、せめて目安になる享年だけでも、と思い、さんざん探していた当時、その史料の中に記されている作兵衛享年四十二という歳に何の疑いもなかった。かえって、やっと知ることができた、という喜びの方が強かった。
 だからその史料に記されている四十二歳という享年をそのままに目安として推測は始まった。

 作兵衛における経緯を次ぎにもう少し詳しく記述してみた。

 「本能寺の変」当時の古川九兵衛の年齢は安田作兵衛の史料を元に推測
 古川家古文書には記されていない祖古川九兵衛の年齢

 先に出版した「古川家史実誌」を著作していた当時、祖となる古川九兵衛の年齢は「史料一」に記されていた安田作兵衛の歳を元として推測した。
 箕浦大蔵丞は、同じ「明智三羽烏」と称されてはいるがその史料もなく、それも次のような内容のものくらいでしかない。よって九兵衛との経緯関係を解く上では除くこととした。

  箕浦大内蔵(大蔵丞)(?〜?)
 新左衛門。本能寺に先陣を切って突入した「明智三羽烏」の一人。のち羽柴秀長家臣を経て紀州浅野家に仕える。
 関ヶ原時には岐阜城攻略(一六〇〇年八月二十三日)にも参戦。
  「箕浦大内蔵の履歴」以上

※前述のような史料からみて、大蔵丞が仕えたとされるこの頃は、まだ浅野長政の代であり、幸長の代になったのは「関ヶ原の合戦」以後、長政が家督を譲った後とされる。また大蔵丞がこの「合戦」に参戦していたということは、「山崎の合戦」以後十八年は過ぎているが、そのときはまだ存命だったことになる。

 次からの安田作兵衛國継について参考にした著書「史料一」は、明智光秀について多数の著書を出版している著作者の書物である。その中に書かれていたものや、ほかの史料等の一部からを次ぎに記述してみた。    

史料・・・
 安田作兵衛は明智光秀の家臣として「本能寺の変」に参戦。信長に障子越しに一番槍を入れ、更に深追いしようとしたが、行く手を阻んだ森蘭丸に杉縁から庭に突き落とされた。更に蘭丸に十文字の槍で下腹部を突かれた。
 そのとき作兵衛、蘭丸の槍をつかみ取り、持っていた刀で蘭丸を下から刺し殺した。このとき、作兵衛二十一歳、蘭丸十八歳。その後、天野源右衛門貞成と改名。享年四十二歳。宝蔵院流の槍の名手で、幼名は岩福。美濃国安田村の出身である。

 作兵衛は慶長二年(一五九七)六月二日歿。そしてこの史料にあるように「本能寺の変」の時作兵衛は二十一歳とある。
 法名は善要智仙人禅定門で、佐賀県唐津市・浄泰寺に埋葬されている。

※安田検校(検校は僧職、もしくは盲人の官職名)と称された子ども がいた。天野作兵衛貞能という孫もいる。九州に子孫が在住して いるとの史料もある。

 作兵衛は明智家滅亡の戦となった「山崎の合戦」の数年後、「明智三羽烏」が京都で再会した後に病から亡くなっている、ということがその史料にかかわらず、他書のほとんどもがそう記している。
 四十二歳というのは安田作兵衛の享年である。そして前記の史料には「変」当時二十一歳とある。

 しかしここにまず疑問が発生する・・・
作兵衛が歿したのは慶長二年六月二日(一五九七)、「本能寺の変」の十五年後である。これは作兵衛が眠る浄泰寺に連絡を取り確認した結果、作兵衛の墓石にも刻まれているというのであるから間違いはないであろう。

 十五年後ならば「変」当時二十一歳だった作兵衛は三十六歳で亡くなっているということにならなければならない。
 勿論満年齢としての場合であるが、それをたとえ数え年とした場合であっても、せめて二歳違いの享年三十八歳までである。
 それが同じ著者がまとめたこの史料なのに、四十二歳となっている。数え年にしても満年齢にしても歳が合っていない。

 数え年の場合でも、生まれた月日からみて二歳の場合が限度である。著者はその不自然さを確認したのだろうか。たった数行の史料の中に、これだけのいい加減さが記述されているのである。

 このような歴史的内容を著作し、ましてや歿したのが慶長二年、とまではっきりと記しているのであるから、作兵衛の歿した日がいつだったのかは分かりませんでした、などということはないはずである。

※数え年は年齢プラス一歳で数えるのが普通である。数え年の数え方は、今のように誕生日で歳をとるのではなく、一月一日で歳をとる。たとえば、誕生日が六月で八十歳だとする。それで、命日が四月だとすると

    月・・・・・十二月 →一月   →四月命日→六月
   数え年・・・八十歳 →八十一歳→八十一歳→八十一歳
   満年齢・・・七十九歳→七十九歳→七十九歳→八十歳

 前記のようになり、四月の命日の時には二歳のずれがある。だから、誕生日が過ぎてからの命日は、基本の年齢が同じなので「満年齢プラス一歳」となる。

 数え年とは「生まれた年を入れて、今何年目になるのか」である。このため、十二月三十一日の大晦日生まれの人は、生まれた瞬間に一年目となる。そして翌日の正月には、もう生まれて二年目と考える。

 余談であるが、民法で人が歳を取るのは「誕生日の前日」とされている。一年間とは三百六十五日(あるいは三百六十六日)であるので、一年間生きた、とは、三百六十五日生きたことになる。
 このため、一月一日生まれの人は、十二月三十一日に三百六十五日目を迎えるので、民法で満一才を迎えるのは十二月三十一日になる。

 日本でも古来より数え年が使われていたが、一九〇二年十二月二十二日施行の「年齢計算ニ関スル法律」により、満年齢を使用することとなった。
 しかし、一般には数え年が使われ続けたことから、一九五〇年一月一日施行の「年齢のとなえ方に関する法律」により「数え年によって言い表わす従来のならわしを改めて」、満年齢によって年齢を「言い表わすのを常とするように心がけなければならない」とされるようになった。
                         
 話は戻るが、このように各武将のその歳まで気にかけているのは、私が九兵衛の子孫であり、その経緯をできるだけ詳細に知りたいがためにそう思っているだけであって、一般的な気持ちで記している著者にとっては、年齢があっていようが間違っていようが、そこまでにこだわる必要性がないのかもしれない。

 ともあれ、「本能寺の変」当時は何歳の頃であれ、まずはそのように作兵衛享年四十二歳と記されていた年齢を目安としたのである。
 そこで曖昧ではあれ「明智三羽烏」と称された古川九兵衛の年齢も同じくらいだろうと推定して前刊「古川家史実誌」の著作は進めた。

 今回こうして古川家の祖と言われる古川九兵衛のみを主に取り上げ、推測するようになり、いろいろな各史実誌史料からを検討して調べていくようになった。
 そのうちに、その「史料一」という著書に記述されていた作兵衛享年四十二歳という歳にも、改めて大きな疑問を持つようになった。

  安田作兵衛國継こと天野源右衛門が
     「本能寺の変」の後、歩んだ人生

 主君光秀を失い「逆臣の家来」という汚名を背負った「明智三羽烏」の一人、当古川家の祖となる武将古川九兵衛。同じ境遇となった安田作兵衛は、天野源右衛門貞成と改名、新たな主君を求めて旅に出る。
 源右衛門は「宝蔵院流」という槍の使い手として腕に覚えがあったので、彼を召抱えようとする大名は多く、引く手あまたの状態だったと記されている。

 ということは、天野源右衛門と改名はしたが、宝蔵院流の使い手ということから、以前は安田作兵衛だったということは分からないのだろうか。

 ともあれその作兵衛について、次のような史料がある。この内容が一般的に記されている作兵衛の史料である。よってこの経緯の流れに沿っての推測とした。

史料
 明智光秀に仕えた作兵衛は、天正十年(一五八二)六月二日、本能寺急襲において京都進入の先鋒大将をつとめた。本能寺の戦いで信長を槍で傷つけ「明智三羽烏」と称されたうちの一人である。
「山崎の合戦」時には「本能寺の変」で傷を受けた作兵衛は参戦できずに敗走した。のちに天野源右衛門と改名して羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷などに歴仕。豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂に仕え、朝鮮に渡り「碧蹄館の合戦」に戦功をあげる。
 戦後、立花家を致仕し、豊臣秀次に召し抱えられる。最後に寺沢家に八千石で仕えた。 「天野源右衛門覚書」を著す。

 このほかに、蘭丸の兄森長可に召し抱えられた、という史料もある。長可は「※長久手の戦い」で戦死。幼い仙千代に仕えていることに耐え難く森家を去り、その後作兵衛は九州へ落ちた、とある。

※・・・小牧・長久手の戦いは、天正十二年(一五八四年)に、羽柴秀吉(一五八六年、豊臣賜姓)と織田信雄・徳川家康との間で行われた戦役。

 作兵衛はどの史料においても九州へ行ったということは記されてはいるが、森家に仕えたという記述は、今までに収集した史料の中では、それ以外に見あたることはなかった。それでも、目にとまったこの史料が後に参考になるかと思い、記述しておいた。
 またその後九州へ行ったというその流れからみると、年代的に森家を去った後ということになる。

 それからみると、作兵衛は豊臣秀次失脚の後に森家へ仕えたと推測される。しかしそれでは仕官している年代が合わなくなる。
 事細かに調べていけば、何らかとつながるところがあるから史料として記述されたのであろうが、作兵衛の経緯を調べる上では、この森長可への仕官は除くこととした。
 ほとんどの史料に、この長可への仕官は記されていないのである。

 とにかく作兵衛においては、各諸家に仕えたとはあるが、その仕官年数は分からないのである。それでも、その経緯はこれほどまでにもはっきりと残されている。
 それだからこそなおさらに改めてその経緯を調べ始めた。勿論それは古川家の祖と言われる古川九兵衛とのかかわりや経緯について調べたいがためである。

 まず「史料二」からみてのそのままに「本能寺の変」当時作兵衛二十一歳、そしてその後四十二歳で亡くなったとされているまでの二十一年間(実際これでは生存年齢が合わない)。
 その間に、作兵衛は六人(長可を入れれば七人となる)の武将に仕え、その後仏門に入り歿している。
 それをまとめてみると次のようになる、

一.まず信長の息子(四男)で秀吉の養子になった羽柴秀勝(永禄十  一年・一五六八年〜天正十三年十二月十日・一五八六年一月二  十九日)に仕える。作兵衛が仕えた秀勝は十八歳という若さで  この世を去る。

※自分が倒した信長の息子に仕えるというのも納得しかねるが、下 克上といわれ、親兄弟までをも殺し合うこの時代、気にするとい うことはないのだろうか。
 そしてまた前述したように「本能寺の変」で作兵衛が倒した森蘭 丸の兄、長可にも仕えたという史料もある。
※類似した例として父と兄を織田信長に殺された山内一豊である。 流浪の日々の果て、何の奇縁か敵だったその信長に仕えているの である。

二.次いで仕えたのが秀吉の弟・秀長(一五四〇〜一五九一)。秀吉  と同じ農民出身のため家代々の家来がいたわけではない。秀長  は優秀な人材を集めるのに熱心だった名将で兄・秀吉をよく援  助したという。
三.秀長の元を去り蒲生氏郷(弘治二年・一五五六年〜文禄四年・  一五九五)のもとへ、蒲生家でも長続きせず。

※氏郷は近江六角氏配下、蒲生賢秀の子。幼い頃に人質として織田 信長の下へと送られた。この氏郷を信長は一目で気に入り、娘の 冬姫を娶らせて重用している。
 「本能寺の変」の際には、信長の夫人や遺児を安土城から救出。 居城・日野城において篭城し、明智光秀軍の猛攻から守り抜い  た。その後は羽柴秀吉に臣従。小牧・長久手の合戦。九州征伐。 小田原の陣。これらの戦いで見事な働きを示し、「天下取りの器 量」と秀吉に激賞された。朝鮮への出兵中に病死。

四.豊臣秀吉の九州平定後(天正十五年・一五八七・九月)、立花宗  茂(一五六七〜一六四二)に仕える。この頃、秀吉による朝鮮遠  征(一五九二〜一五九八)があり作兵衛も参戦。「碧蹄舘の戦   い」では、はなばなしい戦功を挙げる。
五.次に豊臣秀次(一五六八〜一五九五)に召抱えられる。秀次は源  右衛門(作兵衛)に築城の仕事をまかせるが、戦にしか興味のな  い作兵衛はこれが不満で秀次の元を去る。
  やがて秀次は謀反の疑いをかけられ、文禄四年七月十五日、秀  吉によって自害(享年二十八)を命じられる。         
※作兵衛が森長可に使えたとされるならば、この後と思われる。

六.そして最後に九州の大名・寺沢広高(一五六三〜一六三三、永  禄六年〜寛永十年四月十一日)に仕える。
七.後に仏門に入り病にて歿 慶長二年六月二日(一五九七)
                  「安田作兵衛の履歴」以上

  安田作兵衛推測享年
 
 前述のような各諸氏仕官への疑問の中、安田作兵衛における調べが始まった。そして佐賀県の浄泰寺に作兵衛の墓がある、ということを知った。(所在地・佐賀県唐津市弓鷹町一四九四)

 早速に問い合わせをした。そうして数時間後、折り返しの答えに作兵衛の歿は慶長二年六月二日ということ、そしてはっきりとした享年は分からないが、「大体七十五歳くらいでしょう」、ということだった。

 墓石があるのに享年がはっきりとしていない、ということは、その墓石には享年は刻まれていない、ということを直ぐに悟った。
 それは三百五十年以前にもなる当時の頃の年代、古川本家の墓にある墓石の刻まれ方もそのようだったからである。歿した日は刻まれてはいるが、享年は刻まれていないのである。ちなみに、本家の墓石に享年が刻まれるようになったは、明治になってからである。
 
 現在のように、その享年がもっと早い年代の頃から刻まれているという風習があれば、歴史を解明している各著者にとって、系図等を推測する上ではるかに重要な手がかりとなってくることと思われる。
 そして年齢的にもはっきりとしたものが分かるのであるから、十分に確実性のある史料となるはずである。

 しかし、当時それらしい歴史的人物ならば文献等に記されたのであろうが、一般平民においてはその享年までを記録として残すことはなかったのであろう。
 そのような書き方について、各地の歴史館へ連絡を取り尋ねてみたが、全国的にそのようだったようである。

 話は戻るが、作兵衛の享年を「くらいでしょう」と漠然としたものではなく、その確実性をもう少しそれらしく知りたかったため翌日、今度は当地の郷土歴史館へと同じ内容で質問を入れた。
 
 そうして返ってきた作兵衛歿歴は、先日の浄泰寺と同じであった。勿論それは、現在においてもそうして残されている作兵衛の墓石があるからこそ、それを元にしての答えであろう。

 そして亡くなった歳を聞いたところ、「享年は七十二歳ですっ」という答えが直ぐに返ってきた。それは数え年なのであろうが、浄泰寺の答えとは、ここに三歳の年齢差があった。しかし、質疑応答の中で「享年は七十二歳ですっ」と即座に言い切った後者の方が確実性があるように聞こえ、優先としてとることとした。ここでは計算しやすいようにその歳を満年齢とした。

※享年、行年は数え年で記される。数え年の計算法は、生れた年を 一歳とし、以後正月毎に一歳ずつ加えて数える年齢である。役所 関係では満年齢を使うが、仏教では数え年。
 人間は母の胎内に十ケ月いて生れるのだから、その十ケ月と誕生 日過ぎの数ヶ月を加えるからである。つまり「オギャア」と生れ てからの人間誕生ではなく、すでに母の胎内に宿ったことで人間 誕生としている。

※享年の数値としては年齢(数え年または満年齢)と同じであるが、 厳密には享年は現世に存在した「年数」であって、死亡した時の 「年齢」ではない。
 よって表記に「歳」を付けることは一般的には誤用だとされてい る。しかし、一部の雑誌やテレビ報道などでは「歳」を付けてい る場合もある。また、生存した年数の少ない幼少者に対しては用 いない。
 古川本家に残る墓石に「享年」「行年」が刻まれるようになった のは明治以後からであるが、それには「歳」という文字は刻まれ ている。

※それがどうのこうのというわけではないが、当書は現在使われて いる新聞や教科書等にて書かれるようになってきている書き方を 教本とし、また本家に残る墓石に習って「歳」という字は書き添 えることとしている。

※当書の中では、計算上満年齢とした。

 このとき、浄泰寺から言われたように作兵衛の享年を七十五歳とし、次の歴史館へ問い合わせをすることもなくその経緯を推測していたとすれば、それはそれでまた数歳違った歳や年代での流れになっていたことであろう。

 それにしても、作兵衛の墓地が残されている佐賀県当地のこの二者は、このように七十数歳の頃と言ってきたが、ほとんどの史料等にはその歳は不明とされている。
 安田作兵衛の享年が明らかにされているのならば、さんざんと各史料等を探し続けていた当時、すでにその歳は何らかにより確認できていたはずである。それがどうしてどの史料にも「不明」ということになっているのか。

 それにはやはり、その墓石には享年が刻まれていなかったことによるものであろうし、史料として記しておくには、各著者にとって推測で答えを出すよりは無難だったからなのかもしれない。
 あるいはこの安田作兵衛に関しては、そこまで問いつめて調べる必要性もなかった人物だったからなのかもしれない。

  安田作兵衛の推測享年
 
 昨日前述したような各諸氏仕官への疑問の中、安田作兵衛における調べが始まった。そして佐賀県の浄泰寺に作兵衛の墓がある、ということを知った。
                      (所在地・佐賀県唐津市弓鷹町一四九四)

 早速に問い合わせをした。そうして数時間後、折り返しの答えに作兵衛の歿は慶長二年六月二日ということ、そしてはっきりとした享年は分からないが、「大体七十五歳くらいでしょう」、ということだった。

 墓石があるのに享年がはっきりとしていない、ということは、その墓石には享年は刻まれていない、ということを直ぐに悟った。
 それは三百五十年以前にもなる当時の頃の年代、古川本家の墓にある墓石の刻まれ方もそのようだったからである。歿した日は刻まれてはいるが、享年は刻まれていないのである。ちなみに、本家の墓石に享年が刻まれるようになったは、明治になってからである。
 
 現在のように、その享年がもっと早い年代の頃から刻まれているという風習があれば、歴史を解明している各著者にとって、系図等を推測する上ではるかに重要な手がかりとなってくることと思われる。
 そして年齢的にもはっきりとしたものが分かるのであるから、十分に確実性のある史料となるはずである。

 しかし、当時それらしい歴史的人物ならば文献等に記されたのであろうが、一般平民においてはその享年までを記録として残すことはなかったのであろう。
 そのような記述のされ方について、各地の歴史館へ連絡を取り尋ねてみたが、全国的にそのようだったようである。

 話は戻るが、作兵衛の享年を「くらいでしょう」と漠然としたものではなく、その確実性をもう少しそれらしく知りたかったため翌日、今度は当地の郷土歴史館へと同じ内容で質問を入れた。当地の歴史館ならば分かるかもしれない、と思ったからである。

 実際、いろいろな不明な点を何度か各県立の歴史館へ問い合わせをしたことがあったが、各地の歴史を知りたい場合、県の歴史館よりも郷土歴史館のほうが内容的に詳しいことが多い。
 県の歴史館のほうでは細かい史料が少なく、地方の歴史館のほうから、「回されてきました質問に対してお答えいたします」、と連絡が来るときがある。

 そうして返ってきた作兵衛歿歴は、先日の浄泰寺と同じであった。勿論それは、現在においてもそうして残されている作兵衛の墓石があるからこそ、それを元にしての答えであろう。

 そして亡くなった歳を聞いたところ、「享年は七十二歳ですっ」という答えが直ぐに返ってきた。それは数え年なのであろうが、浄泰寺の答えとは、ここに三歳の年齢差があった。しかし、質疑応答の中で「享年は七十二歳ですっ」と即座に言い切った後者の方が確実性があるように聞こえ、優先としてとることとした。ここでは計算しやすいようにその歳を満年齢とした。

※享年、行年は数え年で記される。数え年の計算法は、生れた年を一歳とし、以後正月毎に一歳ずつ加えて数える年齢である。役所関係では満年齢を使うが、仏教では数え年。
 人間は母の胎内に十ケ月いて生れるのだから、その十ケ月と誕生日過ぎの数ヶ月を加えるからである。つまり「オギャア」と生れてからの人間誕生ではなく、すでに母の胎内に宿ったことで人間誕生としている。

※享年の数値としては年齢(数え年または満年齢)と同じであるが、厳密には享年は現世に存在した「年数」であって、死亡した時の「年齢」ではない。
 よって表記に「歳」を付けることは一般的には誤用だとされている。しかし現在、一部の雑誌やテレビ報道などでは「歳」を付けている場合もある。また、生存した年数の少ない幼少者に対しては用いない。
 
 古川本家に残る墓石に「享年」「行年」が刻まれるようになったのは明治以後からであるが、それには「歳」という文字は刻まれている。

※それがどうのこうのというわけではないが、当書は現在使われている新聞や教科書等にて書かれるようになってきている書き方を教本とし、また本家に残る墓石に習って「歳」という字は書き添えることとしている。

 ※当書の中では、計算上満年齢とした。

 このとき、浄泰寺から言われたように作兵衛の享年を七十五歳とし、次の歴史館へ問い合わせをすることもなくその経緯を推測していたとすれば、それはそれでまた数歳違った歳や年代での流れになっていたことであろう。

 それにしても、作兵衛の墓地が残されている佐賀県当地のこの二者は、このように七十数歳の頃と言ってきたが、ほとんどの史料等にはその歳は不明とされている。
 安田作兵衛の享年が明らかにされているのならば、さんざんと各史料等を探し続けていた当時、すでにその歳は何らかにより確認できていたはずである。それがどうしてどの史料にも「不明」ということになっているのか。

 それにはやはり、その墓石には享年が刻まれていなかったことによるものであろうし、史料として記しておくには、各著者にとって推測で答えを出すよりは無難だったからなのかもしれない。
 あるいはこの安田作兵衛に関しては、そこまで問いつめて調べる必要性もなかった人物だったからなのかもしれない。

  佐賀県歴史館との質疑により
       作兵衛の享年を七十二とする

 作兵衛の享年に対し各歴史学者が答えを出さなかった中、あえて確実性のないままに七十二という歳を推定した。
 それは、古川九兵衛の経緯を推測する上で、はっきりとしないまでにも、目安になる歳としての必要性があったからである。
 よってそれに対しての問いつめた質問は避けていただきたい。

 歴史館からの答えにより、ここにおいて七十二という歳を推定したが、より確実性のある史料内容を知り得ている方は、その提供の協力をお願いしたい。
 推測経緯をアドバイスしていただき、闇雲に微力な推測で綴るより、より大きな進展につなげて行きたい気持ちである。

 そうして二カ所から知らされてきたその歳を引用し、「史料一」に記されている四十二という享年を避け、ここに安田作兵衛の享年を七十二歳とすることとした。
※「佐賀県浄泰寺」及び「佐賀県歴史館」よりの質疑より引用

 その歿した年齢から逆算して、十五年前の「本能寺の変」当時、作兵衛は五十七歳ということになった。
 安田作兵衛の歿した日は、奇しくも「変」の日と同様の六月二日、月日が偶然にも同じという丁度十五年後の歿である。

  本能寺の変 天正十年六月二日(一五八二) 当時 五十七歳
  作兵衛 歿 慶長二年六月二日(一五九七) 享年 七十二歳

 こうしてここに、まずは安田作兵衛の歳を推測するに至った。

 しかし「史料二」においては作兵衛の「本能寺の変」当時二十一歳とある。そして歴史館からの答えからにより推測すれば、同じ「変」当時でも、五十七歳となる。
 ここにおいて二十一歳という歳を解明した著者には申し訳ないが、佐賀県歴史館から伝えられた歳を引用することとした。
 その方が今後の推測年齢を検討していく上においては、納得する答えに当てはまる経緯が多くなってくる。
 この両者における答えの開きの違いを次の回に記述してみた。

  安田作兵衛「史料一」による推測享年の相違

当初、「史料一」を元に推測していた四十二歳という安田作兵衛の享年を、佐賀県歴史館より伝えられたように七十二歳とすることとした。
 その享年は、「史料一」に記されている歳からみると、丁度三十歳もの違いがあった。

 この両者における答えの開きが、浄泰寺や歴史館から言われたように数歳ならともかく三十歳もあるのである。それほどの享年の相違はどこからきているのか。
 また真書太閤記などでは、その後作兵衛は落ち延びて十数年生きた、と書かれているし、「本能寺の変」にて森蘭丸のため鑓疵(やりきず)を受け痰毒(たんどく)に罹(かか)り十七年来の宿痾(しゅくあ)となってゐた、という史料もある。

※痰(丹)毒・・・皮膚の傷口から、主に連鎖球菌が進入して起こる 皮膚の急性伝染病
※宿痾・・・・・長い間直らない病気。持病。

 この各史料から推察すると、「本能寺の変」以後作兵衛は少なくも十数年から十七年は生存していただろうと思われる数字が記される。
 もし「変」当時二十一歳だったとすれば、前記の史料からみると三十歳から三十八歳頃までの生存ということになる。

 しかし、作兵衛の墓がある浄泰寺や歴史館から伝えられた七十数歳頃という享年からすれば、はっきりとした歳は分からないにしろ、「史料一」や「史料二」に書かれているように、三十代は勿論四十二歳という享年でもないのである。
 その著者は何らかの史料を参考として著作していたのかもしれないし、それには確かに「本能寺の変」当時二十一歳とあり、享年四十二歳とあったのであろう。
 だからそれをそのままに参考とし、記述していたのかもしれない。

 前刊「古川家史実誌」を著作当時、実際私もそのように「史料一」に記されている享年を何の疑いもなくそのままに記述していた。
 だからその著作者に対して批判をするつもりはないが、どのような史料からその歳が推測されたのか、先祖としての古川九兵衛の歴史を解明する上で知りたい気もする。

 今回の作兵衛における享年推測は、各史料に記されている享年を漠然とそのままに参考として記述したのではなく、浄泰寺や歴史館に問い合わせをし、伝えられた享年である。
 その答えを、佐賀県の二者とも同じような歳で言ってきたということは、当地においての歴史学者がある程度の歴史をひもとき、知識の上においての答えであろうと思われる。

 古川九兵衛に関しての推測は、もともとは安田作兵衛の享年を元にしての推測としている。それならいくらその作兵衛の歳を打ち出したとしても、それも参考にしているだけであって、実際の九兵衛の歳ではないのだからおかしいのではないか、と言われるかもしれない。
 だが、そうした作兵衛の歳を参考にしなければ、古川家の祖九兵衛の場合、推測のしようもないのである。

 またその「史料一」「史料二」を著作した著者が参考とした史料の享年は、案外もともとは七十二歳とあったのかもしれない。それを著作の際四十二歳と打ち込み違えたのではないか、とも考えてみた。
 だが公に著書を出版するには、知識者数人により校正はされていたことであろう。だからそのようなことはあり得ないだろう、と指摘を受けた。
 しかし、実際「祖古川九兵衛」の当書でさえ、数人の人に見てもらい、何度となく読み直していたにもかかわらず、歴史的人名の間違いにさえも気がついてもらえなかったという状態もあるのである。
 
 だから、誤字脱字ならば誰でも見つけることができるのかもしれないが、間違えて書いてしまったその四十二歳という歳にまで不審を抱くというか、気がつくことはなかったのかもしれない。
 歳や年号をわざと間違えて打ち込み読ませても、案外そのままに読み流しているのが大半だろうと思われる。

 我々素人の場合、最終的にその年齢年代にまで気づくのは、校正者ではなく、あくまでもそれらしく内容を把握して文章を書き上げている著者でしかないのかもしれない。
 だからその著者が気がつかなければ、見落とされる可能性は十分にある。ましてや当のその著者は間違いないものとして打ち込んでいるのだから尚更発見が遅れる。

 前刊の「古川家史実誌」を著作当時、古川九兵衛の歳を推測することに躍起になっており、やっと見つかったその史料に記されていた歳を信じ、そのままに四十二歳とした。
 その享年には何の疑いもなかった。戦国時代の当時、戦において亡くなるということは当然に起こりうることなのである。
 だから、たとえその年齢が何歳であろうが、亡くなった歳が若かろうが老いていようが不思議ではないのである。

それなのにこうして不自然さを感じるようになったのは、一人の人物を歴史の中に取り上げ、いろいろな方向から推測するようになったからである。
 そして何よりも、安田作兵衛の享年を浄泰寺や歴史館へ問い合わせをして確認し、知らされたからこそ尚更にその不審さがつのったのである。
 それは、どの人物においても、各々を取り上げて推測していけば、このように何らかの不自然さに該当する問題が起きてくることもあるのであろう。

 「本能寺の変」当時
      古川九兵衛の歳は五十五歳と推定

 安田作兵衛は「本能寺の変」の時に五十七いう歳が推定された。また作兵衛がリーダー的立場にあるとも。したがってそのことから、古川九兵衛は作兵衛の下における立場であり、年下であったとすることにした。
 ひょっとして年上であったのかもしれないが、武芸等に秀でていたのは作兵衛の方だった。よって作兵衛が先鋒を仰せつかった、とも考えられる。
 安易な考えかもしれないが、そのようなことから、古川九兵衛の歳を安田作兵衛よりも二つ下の区切りよく五十五歳と推定した。

 勿論この歳はあくまでも推定でしかない。別に五十歳でもかまわないのである。しかしそれほどまでに歳は離れていなかっただろうとして、今後この五十五歳という歳を「本能寺の変」当時の古川九兵衛の歳とし、これからの「変」以後の年代経緯を推測していく上での元とした。

※安田作兵衛享年七十二歳(一五九七)マイナス十五年前(本能寺の 変)=五十七歳
※現代風に満年齢で数えた場合、安田作兵衛の享年七十二歳から逆 算して「本能寺の変」当時作兵衛は五十七歳となる。
※推測史料・・「本能寺の変」にて森蘭丸のため鑓疵(やりきず)を 受けた作兵衛は痰毒(たんどく)に罹り十七年来の宿痾(しゅくあ) となってゐた。

 前記※印のこの内容から推測しても、「変」当時五十七歳だった作兵衛は、以来十七年は生存していたと思われ、享年は七十四歳となる。
 ということは、浄泰寺から言われた「作兵衛の歳は七十五歳くらいでしょう」という答えにも当てはまるようになってくる。
 となると作兵衛の享年を七十二歳として推測してはいるが、七十五歳としても何らおかしくはないのである。

 当初「史料一」に書かれていた安田作兵衛の享年四十二歳を元に、古川九兵衛の歳も作兵衛と同じくらいだろうとしてこの年代を推測し続けてきた。
しかし佐賀県の歴史館から安田作兵衛の享年七十二歳と知らされた時点で、十五年前の「本能寺の変」当時、安田作兵衛は五十七歳となった。
 そして古川九兵衛の初めに見立てていた歳を作兵衛同様四十二歳頃としていたが、ここに「変」当時五十五歳とすることとした。
 こうしてこの両者の歳を推測し、上下関係をも位置づけた。


  古川九兵衛は七十五歳までは生存か

 「本能寺の変」当時古川九兵衛五十五歳。とすると、歴史上に記されている幸長に仕えたとされる十八年後の一六〇〇年の時、古川九兵衛は七十三歳となってはいるがまだ存命だったということになる。
 それを考えれば、前刊「古川家史実誌」を著作時、九兵衛は六十歳くらいで歿したと推定していたが、ここに七十歳半ば頃までは生存していたという確実性もおびてくる。

 そして古川家の古文書にも、はっきりとした享年は記されていないので分からないが、案外九兵衛はそれよりももっと長命だったかもしれない。
 とにかくある史料「戦国時代の平均享年」からみると、戦で亡くならなければ、当時でも八十歳はゆうに生存していたという人物が結構いるのである。

 ところで、一六〇〇年に幸長に仕えたとされるとき、すでに古川九兵衛は七十三歳という歳になっている。いくら「明智三羽烏」と称され武勇にすぐれていたとはいえ、このような高齢になっていても、当時は諸家に仕官することができたのであろうか。
 固定観念からかもしれないが、当時五十代といえば老齢とされ、家督を譲り渡していた年代の頃だと思われるのだが。

 しかしいろいろな史料からみると、そうとばかりは言えないのかもしれない。それを安田作兵衛において考えてみる。作兵衛は「本能寺の変」当時五十七歳と見ている。普通このくらいの年代で主君を失ったとすれば、その後は諸家に仕えるということはしないのではないのかと思われる。

 それがその後立花宗茂に仕えて朝鮮遠征に行っているのが六十七歳の時。その後宗茂を致仕し、七十一歳の時になって寺沢広高に仕えている。
 これから見ても、その頃の歳になっても仕官ということはあったのかもしれない。何歳であれ諸家に仕えるということができ、生涯武士として仕官先で亡くなって逝ったのかもしれない。

 また「本能寺の変」当時古川九兵衛は武士だったとはいえ、「常陸の国」へ来てからは戦で亡くなった訳ではないとして、この戦国時代の武将及び病歿した作兵衛の享年よりも長命だったろうとした。
 先に推測したように、安田作兵衛は七十二歳で歿しているが、それさえも戦で亡くなった訳ではなく病にての歿である。だから病気でなければもっと長生きしていたかもしれない。

 幸長が家督を譲り受けてから仕官したとしての今までの推測から見て、古川九兵衛が「常陸の国」へ来て歿するまでに数年しかない。だからその短い間に、当地の武将(当時佐竹藩)に仕えたとは思われない。
 そこで九兵衛の享年を病で亡くなった作兵衛より三年長生きしたとして、ここでも区切りよく七十五歳と推定した。
 それは「本能寺の変」当時五十五歳とすればそれから二十年間生存し、一六〇二年の歿となる。

 ちなみに、古川家古文書「古川履歴神佛霊」に記されている各先祖の享年を見てみると、古川本家の場合、平均して六十歳くらいで歿している。
 はっきりとした享年が分かっているのは明治時代以後からであるが、その中には幼少の時に亡くなっている子供もいるし、天寿を全うしたと思われる先祖もいる。それらを合わせて平均してみると六十歳くらいになる。

 また信長の一代「信長公記」を著作した信長家臣太田牛一は、古川九兵衛より八年も長生きしており、八十三(四?)歳まで生存している。この二人は同年の出生であるとみている。
 この牛一は公的な歴史上にそれらしく記されているのだから、推測的な享年ではないと思われる。ちなみに「信長公記」をまとめ上げたのは「本能寺の変」で信長が亡くなってから十六年後、牛一七十一歳の時。

  本能寺を囲んだ桔梗紋

 今年も月遅れのお盆は終わった。光秀の居城坂本城が六月十五日に落ちて二ヶ月が過ぎた今頃、当時の時代はどのような状況だったのだろうか。明智家が使用していた桔梗紋は、出来るだけ目に付かないようにしてしまったのだろうか。

 桔梗は秋の七草の一つなので秋の花と思っていたが、早六月下旬には咲き始めるらしい。旧暦では五月下旬、ということになる。その開花とともに事件は起きた。

  ときは今 あめが下しる五月かな 光秀

 本能寺が紅蓮の炎に包まれた六月の頃、野には優しく美しい桔梗の花が開花し始めていたであろうと思われる。
 しかし、本能寺が急襲されたとき、そのようなのどかに咲き始めた桔梗の姿を想像している人は誰一人としていなかったであろう。
 今の時代になり、自分の身に直接関わりのない第三者的立場からみているためにそのような考えができるのかもしれない。

 本能寺の周りには、野に咲く桔梗ではなく、明智家の桔梗紋が取り囲んでいたはずである。本能寺を一重に二重にと取り囲む明智光秀の水色桔梗の紋。その中に「明智三羽烏」と称された古川家の祖、武将古川九兵衛もいたのである・・・・。

 今の今まで信長の家臣であった明智光秀が、謀反としての桔梗紋を掲げたのを見たとき、自分たちの最期を告げるこの優しく美しいであろう桔梗という花の紋を、信長や近習たちは一体どのような気持ちで見つめたであろうか・・・。

 この戦において、幸いにも祖古川九兵衛は生き残っていたからこそ現在の子孫としての我々が在しているのだが、もしそのとき討ち死にしていれば、九兵衛子孫としての今の古川家は勿論、私自身もこの世に在してはいないのである。
 そのようなことを考えるとき、突然に起こるその戦のむごさというものを、しみじみと実感する。それが光秀側であり、信長側であったとしてもである。

 たとえその時代に生を受けた運命とはいえ、そしてそれがその歴史の中の一こまであったとはいえ、九兵衛が武運により生きながらえることのできた喜びは、その命の重大さを実感せざるを得ない。立派に戦って戦死するということばかりが武功ではないはずである。しかし、当時はそれが誉れとされていた時代だったのであろう。

「本能寺の変」の一説より・・・
 
 本能寺の塀を乗り越え、寝所の間の大庭に乱入したのは、蓑浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛の三人であった。信長は白絹の単物を召し、十文字の鑓で三人と競り合った。 初めは矢を射ていたが弦が切れ、弓を捨て、鑓を求めた。
 地臙脂帷子を着た二十七、八才になろうかと云う女房が、十文字の鞘を外し信長に差し出した。信長はその鑓を取り、広庭に飛び降り、三人と鑓にて戦った。
 しかしさしもの信長も、明智家きっての剛の者三者を相手に長き奮闘も続かず、最期を覚った信長は、座敷に戻り、障子を引き立てた。
 奥に向おうとしたとき、座敷の燭台に照らされ、信長の影が障子に映し出された。安田作兵衛はその障子越しに鑓を突き出した。
 鑓先は信長の右の脇に突き刺さったが深手とならず、信長は寝殿に入り、炎の中で生害(自殺、自害)した。    
                           「信長公記」等より要所を引用し記述す

 放映ドラマ内容に求める真実性は期待はずれ

 本能寺においての戦いの状況を、前記のような内容で各軍記史料等には記されている。しかし、今までにそのときのことをドラマ化しているテレビ放映を見るが、その状況をそのままに再現している映像を未だ見たことがない。

 それはメインとして取り上げているあらすじによって、そこまで再現する必要性がないという演出家の考えによるものなのであろう。だから、光秀が本能寺を急襲したという結果的映像のみでしかないのかもしれない。

 視聴者にとっては本能寺が急襲されたというそのことが分かればいいのであって、そのときの状況がどうであったのか細かく問いただす必要性があるわけではないのだろう。

 しかしそれでも、「明智三羽烏」と称された武将古川九兵衛の子孫としては、そのときの内容を、実際にあった歴史の一こまとしてそのまま再現してもらいたい気持ちである。

 何も知らなければ、そのようなものだったのか、と思って流れている映像をそのままに見ているだけなのであろうが、前述のように「本能寺の変」の時はこのような状況であった、ということを軍記等により知り得ていると、この演出家はそれを裏切らずに何処まで再現してくれているのか、と思う期待の気持ちの方が先に立って見ている。

 「本能寺の変」や「明智光秀」においてのみを解き明かしている番組を極力見るようにしているが、本能寺急襲の際のそのときの状況を「信長公記」等各史料により記されているように、そのままに取り上げて再現しているものはなく、今回も期待はずれか、という内容で終わってしまう。

 不明な部分ならば解明しなければならないということもあろうが、各著書に記されているように「本能寺の屏を乗り越えて・・・」という急襲状況はそれが現実であるならば、その場面は改めて推測するほどのものでもなく、そのままに再現できるのではないのかと思われるのだが。

 しかしそれも疑うわけではないが、そのときの状況が実際にそのようであったのかどうかである。「信長公記」を書いた太田牛一は「本能寺の変」の際には「近江の国」の代官を務めており、とあるのだから、実際にその場にいて見ていたわけではないはずである。
 となると、どのようなところからそのような状況だったということが書き出されたのかである。それも「鑓先は信長の右の脇に突き刺さったが深手とならず」、とその細部の状況までをも書き出しているのである。

 後になり、作兵衛が事件当時の様子をインタビューにより、「そのときの状況はこうでした」と答えたのかどうかは分からない。
 しかし、同じ「本能寺の変」の時に、従軍していたとされる光秀配下の武士「本城惣右衛門」が別な内容でしたためた史料がある。 その内容から見ると、前記したように華々しい立ち回りが合ったようには記されていないのである。

  「明智三羽烏」の京都での再会はいつなのか

 「本能寺の変」において織田信長に一番槍をつけたのは安田作兵衛こと安田国継である。しかしこの「変」でもっとも活躍した明智家家臣は「明智三羽烏」と称された古川九兵衛、箕浦大蔵丞を含めた三者であった。

史料
 「山崎の合戦」後、この三者は武勇もすぐれていたために、やがて諸家に召抱えられることとなる。三者は数年後、京都で再会している。
 天野源右衛門と改名して立花左近将監宗茂(一五六七〜一六四二)に仕えて京都の旅宿にいた安田を、紀伊の浅野幸長に召し出された古川九兵衛が訪ねて来た。
 そこへ偶然※羽柴秀長(一五四〇〜一五九一)家臣を経て同じ紀州浅野家に仕えている箕浦もやって来た。本能寺以来、ひさびさの対面ということで安田がもてなし古話に花が咲いた(「翁草」より)・・・以下略          

※羽柴秀長・・・・一五四〇〜一五九一 羽柴秀吉の父違いの弟。 農民として暮らしていたが、秀吉に乞われその家臣となる。以  降、秀吉の副将として幾多の合戦にも参加し戦功を挙げる。秀吉 から非常に信頼されていたが病歿。
※召し出された・ ・呼び出して官職や給料・禄などを与える

 「翁草」により前記のような史料が残っているが、これにおいて次のような二つの解釈が考えられた。

一.「山崎の合戦」後、まずこの三者は諸家に召し抱えられる。そ  れからの数年後に京都で再会している。
二.「山崎の合戦」の数年後に三者は京都で再会している。その再  会の後に諸家に召し抱えられる。

 この二つの解釈に対し、前記文章「翁草」の流れに沿って、一応「一」として推測していくこととした。だからこれを「二」として考えていけば、また違った年代的経緯での推測となっていく。
 ところで「一」として解釈して行けば、三者は「合戦」後、まず諸家に召し抱えられる、ということになってくる。

 だが古川九兵衛は史料から見れば、「山崎の合戦」後、幸長に召し出されるまでの十八年間は不明となっている。
 これだけの年数からみれば、この「一」としての「合戦」後まもなく、とされる仕官解釈からは考えられなくなってくる。

 勿論史料に記され、また残されてはいないが、この間に別な武将に仕えており、そのときに三者が再会していたとされたのならばまた話は違ってくる。
 しかしここでは、あくまでも幸長に召し出された後、として推測していく。

 いずれこの三者が京都で再会しているのは何年の頃なのか。それは幸長が家督を譲り受けたとされる時期が分かれば「一」の解釈にしろ「二」の解釈にしろ、別々な推測になるだけであって、結果的にはどちらもおのずとその年代にたどり着く。

 それは「山崎の合戦」以後、歴史の年代的流れに沿って京都での再会時まで推測していくのか、それとも幸長に仕えたときが分かって、それからその再会時期まで逆に戻りながら推測していくのか、そのどちらかである。
 九兵衛においての推測を進めていくことにより、後の解明の結果それはこの「二」という方に該当するようになってくる。

この推測は、紀伊の浅野幸長に召し出された古川九兵衛が、旅館にいた作兵衛を訪ねて来た、と記されているように、そこのところを鍵として推測している。
 初めはこの表現のままに推測していくが、しかし、後にはこの年代がくつがえされていく。それは三者が京都で再会しているのは、九兵衛が幸長に仕えてからでは遅く、その三年前にならなければならないとなってくるのである。
 なぜならば、そのようにならなければ、安田作兵衛においては生存中に三者と会える機会はないのである。

 話は戻るが、前記「翁草」の史料内容から考えると、古川九兵衛が浅野幸長に召し出される以前、すでに箕浦大蔵丞は浅野家に仕えていたことになる。
 それはこの大蔵丞は「関ヶ原の合戦」にも参戦していると記されているからである。だからすでに幸長の父長政の代から浅野家に仕えていたということになる。

 古川九兵衛においては「幸長に召し出された」とあるのだから、幸長が家督を譲り受けた慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原の合戦」以後であると思われる。それは「本能寺の変」から十八年後のことになる。
 ということは、「一」として推測していった場合、この三者が数年後京都で再会している、と史料にはあるが、それは数年後というよりも「変」後すでに十八年も過ぎていたことになる。

 ところで数年後というのは、一体どのくらいまでの年月が過ぎていてもそのような表現の仕方をするのだろうか。せめて、二〜三年か、四〜五年くらいあたりまでであるように思われるのだが。

 「一」として考えていた固定観念からかもしれないが、それがためにこの三者が京都で再会しているという年月を、本当に二〜三年後という数年としかみていなかったのである。
 その思いのままに推測していたのであるから、年代的背景のギャップに疑問を持ちながらの推測となっていた。
 十八年後、京都で三者が会ったと言われるとき、古川九兵衛は七十三歳になっている。

 しかし、後に解明されることとなるが、この三者が再会したのは、「本能寺の変」後九年の月日が過ぎていた頃なのである。

   安田作兵衛の年齢的不審
      三羽烏の京都再会時期は

 古川九兵衛が幸長仕官後、この三者が京都で再会していると言われるのはそれはそれでいいとして、今度はその歳について考えてみる。
 すると、そこには各々に不自然な点が出てくる。それは、まずこれを安田作兵衛に置き換えてみると直ぐに分かる。

 「本能寺の変」当時作兵衛は五十七歳。古川九兵衛が幸長に仕えたとされる十八年後(一六〇〇)に京都で三者が再会しているとすると、そのとき作兵衛は七十五歳になっている。
 ということは、享年七十二歳という作兵衛はその三年前、すでに亡くなっており、三者が揃って再会するということは到底不可能なのである。
 それも一六〇〇年に幸長が家督を受けたとされているその年に会ったとした場合であり、それ以後に幸長は家督を受けているということも考えられる。そのことをまず単純に考えてみても

  三人の京都での再会は、幸長が一六〇〇年に
       家督を譲り受けたとされる以前でなければならない

ということになってくる。
 最短的に考えて、京都で三者が会った翌年に安田作兵衛が七十二歳で亡くなったと考えてみる。すると遅くともその前の年七十一歳の時には会っていなければならない。
 そのためには本来作兵衛は次のような経緯になっていなければならないのである。

一五九六 作兵衛 七十一歳
 遅くともこの歳に「明智三羽烏」は京都で再会していなければ今後会う機会はない。翌年に作兵衛は歿。それが各史料にあるように、古川九兵衛が幸長より家督を譲り受けた後とされる一六〇〇年以後の再会となれば、歿後四年もたっている。
一五九七 作兵衛歿 七十二歳  淨泰寺に埋葬
一六〇〇 関ヶ原の合戦   各史料によると幸長が家督を譲り受 けた後のこの時期に、「明智三羽烏」が京都で再会しているとされている。そうなると、このとき作兵衛すでに歿の三年後となってしまう。                    

 前述のようにただ年代のことだけを考え、作兵衛の経緯にのみを合わせて再会ができるときのことだけを考えてみる。そして七十一歳の一五九六年ならば歿する一年前であるため再会の機会はある、と設定できる。

 しかし、今度は古川九兵衛に置き換えてみる。すると三者が京都で再会するとされている一五九六年のその前の年一五九五年、古川家古文書からの推測と合わせみると、すでに古川九兵衛は「豊前の国」へ出立しているのである。

 そのような流れからを考えると、今度はこの古川九兵衛においては再会の都合がつかないのである。したがってこの一五九五年のときでも、三人が揃って会えるということはなくなってくる。

 だが考えようによっては同じ一五九五年でも、三者と会ってから九兵衛は「豊前の国」へ行ったとも考えられる。しかしここでは、同年には一つの事件行事だけしかないものとして推測しているため、この年にはなかったこととする。

 宿にいた安田作兵衛を古川九兵衛が訪ねてきた・・・、とあるのだが、当時の交通手段を考えると、京都から「豊前の国」を頻繁に行き来できる訳でもなく、わざわざ京都へ会いに戻って来るということは到底ないものと思われる。

 また箕浦大蔵丞においては、「偶然に」と記されているのだから、この三者で会うために事前に連絡を取り合い、わざわざ訪ねて来たのではないと思われる。
 それを考えると、この三者が近隣に在していたからこそ再会できたものと考えられる。

 このように古川九兵衛や安田作兵衛の各々の経緯までをもふまえて考えたとすれば、京都で三人が支障もなく揃って会うことができるのは、古川九兵衛が「豊前の国」へ出立する前の年、少なくも一五九四年までさかのぼらなければならないのである。
                            (箕浦大蔵丞の経緯は除く)
 それは幸長が家督を譲り受けた、とされる「関ヶ原の合戦」の六年も前になってしまう。そのとき古川九兵衛六十七歳。安田作兵衛六十九歳となる。

 今までは古川九兵衛が「幸長に召し出された」とあるから、一六〇〇年の「関ヶ原の合戦」以後の幸長の代になってからの再会と思っていた。
 しかしそれは幸長が家督を譲り受けたとされる以前、それも少なくも六年も前でなければならないのである。

  古川九兵衛 幸長仕官後のいきさつ

 当初古川九兵衛に関して、ある博士が書いた「史料一」や他の史料の内容からみて幸長仕官は「合戦」以後とあるため、それは「山崎の合戦」直後の以後という意味で解釈していた。
 確かに「合戦」以後には違いはないが、そこには十八年も過ぎていた以後、ということの裏付けにもなった。

 「山崎の合戦」当時古川九兵衛は五十五歳と推測している。そして「合戦」以後直ぐに幸長に仕えたものとして考えてみた。そして幸長が亡くなる慶長十八年(一六一三)八月二十五日までの三十一年間を仕えたとみれば、九兵衛の歳は八十六歳にもなる。

 ところが仕官した幸長は三十七歳で歿したとされるのだが、その十一年前(一六〇二、慶長七年)、すでにそのとき七十五歳となる古川九兵衛自身が亡くなっている。だから当然九兵衛は幸長が亡くなるまで仕えていたわけではないということになる。当初から幸長に仕えていたとすれば、九兵衛が歿した時幸長は二十六歳の時となる。

 古川九兵衛は一六〇〇年当時二十四歳の幸長に仕えて致仕し、その後「豊前の国中津」を経て「常陸の国」へ移り住む。そして一六〇二年に歿するという年代的推測からみて、幸長を致仕してからの九兵衛は丸二年の生存歳月しかない。

 だからその歳月から見て、幸長に仕えたのはほんの数ヶ月であり、それほど長く仕官していたとは到底考えられない。
 そして、世矢村へ来てどれくらい住むようになったのか。その経緯年代すら古川家古文書にも記されておらず、はっきりとした歳月は分からない。

 「山崎の合戦(一五八二)」から「関ヶ原の合戦(一六〇〇)」まで十八年。そして九兵衛が浅野幸長に召し出されたと思われるのは各史料により一六〇〇年の「関ヶ原の合戦」以後。
 それまでの十八年もの間古川九兵衛は何処にいたのか。この間の九兵衛の経緯は全く不明なのである。
 豊臣秀吉が亡くなったのは慶長三年(一五九八年)八月十八日。それから二年後の一六〇〇年に、それまで不明だった九兵衛は歴史上に再び姿を現し幸長に仕えている。
 ということは、その間秀吉が存命だったため、探索から逃れるために身をひそめていたのか。そしてやがて秀吉が亡くなり探索の手もゆるみ、再び姿を現してきた。
 
 同じ「明智三羽烏」と称された安田作兵衛が、そのような探索の中、前述したようにはっきりとその経緯を残しているということは、当初から天野源右衛門と改名して主君を換え転々としていたため、秀吉のその探索から逃れられていたのかもしれない。
 また古川九兵衛も「山崎の合戦」以後、秀吉の探索から逃れるために、それほど長く一所にはいなかったものと思われる。

 古川家古文書に記されている内容からの推測だけではっきりとしたことは言えないが、「豊前の国中津に足を止め」とある。だからその地でも同様に長くはいなかったものと考えられるのである。

 そのように「足を止め」というような表現をするというくらいであるから、後の古川九兵衛の余命から推測して、せいぜいいたとしても数ヶ月くらいであり、それほど長く逗留していたとは思われない。

 だが「豊前の国」においてのこのときは、推測上すでに秀吉は亡くなっており、幸長をも致仕した後のことである。ということは、このときは探索から逃れるための必要性があったからではなく、ただ、逗留が短かったにすぎないということだけになってくる。

 そして、九兵衛が「常陸の国」へ来て在住するようになったのも一年くらいと推測したが、それは一六〇二年に亡くなるという余命からそう推測しただけである。

   古川九兵衛「豊前の国」から「常陸の国」への移動推移

 その当時、「豊前の国」からの距離をどのような経緯で移動して来たのか。古川家古文書には書き記されてはいないが、その移動手段として陸路と海路がある。

 海路の場合、「豊前の国中津」から瀬戸内海を船で北上して来るという方法である。それが一般的であろう。中津からならば船の便もよく、大阪辺りへ上陸すれば歩く距離が約三分の一くらいは短縮されるはずである。また「常陸の国」まで直接くる船があったのかもしれない。

 しかしその頃の時代、商業としてならばともかく、一般的な移動手段として各都市を結ぶために往来する船は出ていたのだろうか。
 史料文献等を調べれば分かることなのであろうが、しかしその経緯を推測するにあたり、古川九兵衛の場合あえて一路陸路にての移動として考えてみた。

豊前の国・・・現在の福岡県北九州〜大分県北部。一八七一年(明治四年)の廃藩置県から、一八七六年(明治九年)の全国的な県の統廃合を経て、山国川(※注)を隔てて福岡県と大分県の二県に分けられることになった。
 (※注)山国川は福岡県と大分県の県境にそびえる英彦山、犬ヶ岳に源を発し、名勝耶馬渓の景観を造りながら周防灘にそそぐ一級河川。

 ここで、九兵衛が各地を移動するのに要した距離や日数を、目安として推測してみた。まず各地域間の距離とその日数を調べだしてみた。勿論現在における地図でのおおよその推測である。

「紀州紀伊の国」から「豊前の国中津」まで約七百四十キロメート      二十五日
「豊前の国中津」から「常陸の国久慈郡世矢村」まで千三百八十キロメートル 四十六日

 人間の歩く平均速度とされる時速四キロとして一日八時間の移動とし、それからみて一日の移動距離を約三十キロメートルとして計算した。
 すると前述のように、「豊前の国」から「常陸の国」へ移動するにおいて、四十六日という日数が計算された。これから見て、たとえ物見遊山的に歩きその倍と思われる日数がかかったとしても、せいぜい三ヶ月位であり、数ヶ月にも及ぶ月日を要したとは思われない。

ここでせいぜい三ヶ月くらいと人ごとのように書いたが、毎日の走行とした場合、現在の我々から見るとよほど健脚でなければできなかったのではないかと思われる。

 「豊前の国中津」を出立した当時の九兵衛の年齢七十歳。そして家族連れ。道中いろいろな出来事があったとも思われる。
 とにかくどのようないきさつがあったにしろ、七十歳になる九兵衛にとっては、「常陸の国」まで来るというその思いは、一大決心であっただろう。

 それに九兵衛の一族が「常陸の国」へ来る途中に、病気などで亡くなった家族がいたかもしれない。古川家古文書「古川履歴神佛霊」の系図の中には、巡礼の途中病気になり、雪の中で二人の男女が歿したということが記されている先祖もいる。その先祖の墓石も本家の北浦墓地には残っている。(一八五六年歿)
しかし九兵衛等のこの推測においては、これといっての障害もなく、スムーズに移動できたものとしての計算とした。

 ここで、一つの疑問が起きた。古川九兵衛が「豊前の国」を出立する当時七十歳、そして親子間の歳の差を二十歳として計算してみる。
 一般的に、親子間の代数は二十五年として計算されている。しかしそれは、親が隠居して子供に代を譲るときの計算の仕方とされており、この場合、親子間の年の差として計算しているので二十歳とした。

それからみると七十歳の九兵衛には五十歳の嫡男がおり、三十歳の孫もいる。そして十歳になる曾孫(ひこ、四代目)までもいたと推測される。 

 ということは、「豊前の国」を出立する時、九兵衛と妻、そして嫡子、嫡孫、曾孫と含め、その最低五人は同道したものと思われる。
 それは古川本家の系図が、九兵衛子孫としての現在へと代々に残されているからである。だから、少なくも九兵衛直系嫡男は、当時そろって「常陸の国」へ移動したものと思われる。
 七十歳になる九兵衛夫婦だけが、遙か遠く知らない土地「常陸の国」へ来て、歿するまでの数年くらいの間に養子を迎え、後を継がせたとも思われない。

 前述のように、九兵衛夫婦には五十歳になる嫡男がおりその妻や子という家族がいる。三十歳になる嫡孫も同様と思われる。そのようなことまでもふまえて考えると、当時「豊前の国」にいた古川家の直系となる家族一門は、案外全員そろって「常陸の国」へ来たとも思われる。まさか、妻子をおいて父親だけが九兵衛とともに来たとは思われない。

 またこのとき、九兵衛には何人の実子がいたのかは分からないが、二男、三男という子供やその夫婦家族もいたはずである。その家族は各地に残ったのかもしれないし、あるいは一緒にこの「常陸の国」へ来たのかもしれない。

 そのような家族の流れを考えると、九兵衛直系の子孫として現在の古川本家はあるが、「常陸の国」へ来てから分家となった古川家の子孫が、この「常陸の国」の何処かに住んでいるとも考えられる。
 だから「自分の先祖に古川九兵衛という武将がいた」という古川家が、この茨城県を初めとし、どこかに住んでいると考えても不思議ではないし、間違いなくいるはずである。

 しかしそれは古川本家や我々のように、代々に言い伝えられていなければたとえその子孫であれ、知らないこととなる。何しろ「本能寺の変」以来四百二十年余の年月が過ぎており、九兵衛を祖とする古川本家は、現在十五代目の継承者となっているのである。

 幸いにも、九兵衛を直系としての系図が代々に書き記され、石神城石神長松院を介し、本家に残され続けていたし、そのことを聞かされ続けていたからこそ事実として確認されているのである。

 だが、今までに古川の名字を名乗っている人に会うことはあるが、歴代の系図の中から古川本家の流れを分家していると思われる古川家に会ったことはない。
 古川九兵衛直系の分家なら、たとえ何代目の子孫であれ、本家は世矢村に居を構えている古川家からの分家である。そこからの分家となれば、間違いなく九兵衛直系子孫としての分家である。

 同じ古川九兵衛の支流と言われてもそれ以外の分家となれば、九兵衛の嫡男以外、それは二男三男といった家を出た子供の分家となる。
 さかのぼれば、たとえ九兵衛の何番目の子供であれ、父は九兵衛であった、ということになるのには間違いない。

 それからもう一つの目安として、九兵衛が使用した「丸に抱き葉沢瀉」紋である。古川家家紋掟により、徳川時代までなら、分家ごとに家紋は変紋せざるを得ないが、明治以後になるとたとえ分家しても、本家(実家)で使用していた「沢瀉紋」の紋様をそのままに使用しているはずである。
      
 この家紋においても主紋である「沢瀉」の一種「抱き沢瀉」の類を使用している家を見かけることはあるが、本家と同じ「丸に抱き葉沢瀉」を使用している家には今までに一度も会ったことはない。
 本家分家で幾分か違いを持たせてあるとは言われるが、古川本家と同じ紋を使っている古川家に会ってみたいものである。

 もしこの投稿を読んで、自分の家の先祖にも古川九兵衛という武将がいたという話を聞かされたことのある諸氏には、このホームページを借りて投稿していただければ嬉しい限りである。

 「山崎の合戦」後、浅野幸長に仕官
    その後再び
  歴史上の文献から消えた古川九兵衛の足取り

一五八二年天正十年六月十五日、「山崎の合戦」で敗れた明智家一族は滅亡。家臣古川九兵衛は「明智三羽烏」と称される程の誉れ高き武勇にすぐれし武将のために、その後紀州紀伊の国浅野長政長男幸長に召し出される、とある。
 しかしそれもいつの頃なのか、そしてその仕官年数もどのくらいだったのかは記されていない。

だがその仕官したときは「関ヶ原の合戦」後に幸長が家督を譲り受けた後、と各史料に記されているところから推測して十八年も過ぎてからであるということになった。
 しかしその後どの武将に仕えたのかは記されていない・・・、というのもまた各史料による記述である。

 古川九兵衛は「本能寺の変」において織田信長と直接に渡り合ったほどの武将であり、そのときの三者が「明智三羽烏」と称された武将である。
 主君光秀の采配とはいえ、当時「神に近い男信長」とされていた人物に斬りかかっていった「明智三羽烏」。そのような神に刃を向けた古川九兵衛は、「山崎の合戦」で明智家が滅亡となった後、一六〇〇年に浅野幸長に仕えたとされるまでの十八年間、羽柴(豊臣)秀吉の探索から逃れるためか、身をひそめ続けていたと思われる。

 結果として、この「山崎の合戦」後から足取りが途切れ、「明智三羽烏」と言われながらも、古川九兵衛という名は歴史上の文献から消え去ることとなるのである。
 九兵衛の足取りは以後完全に不明となっているのは、豊臣政権になり、秀吉存命というそのせいがあったからなのだろうか。

 しかしそれからみてもこの十数年、たとえ身をひそめていたにしろ、その間九兵衛はどの武将にも仕えていなかったのだろうか。この後浅野幸長に召し出されるとあるが、その間武士から離れていて突然に浅野家に復帰したとも思われない。

 史料上古川九兵衛の経緯は途絶えてはいるが、それまでの長い間、どこかの武将に仕えていたとも思われる。いずれその間のことは、どの史料にも記されていないため、推測のしようもなく不明とするよりほかはない。

※源平の戦で負けた平家に対しての「平家狩り」。「関ヶ原の戦い」で敗北した豊臣残党に対する探索。そのように、滅亡となった明智家一族や家臣郎党への探索も豊臣により行われたものと思われる。
 それがどのくらいまで続いたのかは分からないが、徳川家が「関ヶ原の戦い」で敗れた豊臣家の一族残党を根絶やしにするまで十年は続いたとされる次のよな史料がある。そして豊臣秀吉の墓までも掘り起こされ、破壊されたとも記されている。

史料
「秀頼の子の国松も潜伏している所を捕らえられて処刑され、また豊臣家縁故の者は皆殺しにされた。また徳川家光の代には秀吉の墓までも幕府によって暴かれ、長宗我部盛親はじめ残党の追尾は十年以上に渡って行われた。徳川幕府転覆を企てた由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は長宗我部盛澄といい長宗我部盛親の側室の次男という」

 やがて浅野幸長に仕えた古川九兵衛は、致仕後次のような経緯をたどって「常陸の国久慈郡世矢村」へ移り住んでいるということが、石神城石神長松院にて書き残された古川家古文書「古川履歴神佛霊」巻頭言にて記され、残されている。
 その経緯は、浅野幸長に仕官したとされてからの後に、再び不明となっている古川九兵衛のその後の足取りとつながってくるようにも感じとれる。

 その年代がいつの頃なのかは分からないが、いままでの推測経緯から見て、一六〇〇年に幸長に仕官し、数ヶ月で致仕。翌年慶長六年(一六〇一)の七十四歳の頃に世矢村に移り住み、その翌年七十五歳にして歿していると推定している。
 幸長以後九兵衛が世矢村にて歿したと思われる七十五歳という歳まで、そこには二年の歳月しかない。
 
 「本能寺の変」以後不明だった九兵衛が、一六〇〇年の「関ヶ原の合戦」の後、浅野幸長に約数ヶ月くらい仕え、また、古川家古文書に記されているように、「豊前の国中津」に「足を止め」というところから、これもまた数ヶ月くらいの逗留として推測した。
 「常陸の国」へ来て歿するまでのその二年と思われるうち、「豊前の国」からの移動歳月を含めてまず一年と見立て、残りの一年を世矢村で過ごしたと推定した。

 

     前記までの要約
 幸長が「関ヶ原の合戦」後 家督を譲り受けたとされる以前
     すでに九兵衛は幸長に仕官していなければ
              京都にての再会は年代的に合わない

 「本能寺の変」において歴史に名を残した明智家家臣・武将古川九兵衛。世に「明智三羽烏」と称され、また古川家古文書には「明智光秀三槍の一人」として記されている。
 今までにいろいろと推測してきたが、その史料内容をふまえて検討していけば、古川九兵衛の経緯は「本能寺の変」以後、次のような年代の流れの中で「常陸の国久慈郡世矢村」に移り住み、生涯を終えたと推測される。

 各著者が発刊した史料の文面上の流れからだけをみてみれば、古川九兵衛は「本能寺の変」より十八年後の一六〇〇年に、長政より家督を譲り受けた幸長に仕え、その後「明智三羽烏」は京都で再会している、とするような記述のされ方である。
 しかし一六〇〇年のそのとき、すでに七十五歳になっている安田作兵衛はその三年前の一五九七年、七十二歳で歿している。ここに年代的不自然さが表れてくる。

 今までに、家督を受けるということは、親が隠居するか歿した後に受けるのが普通であろうと思われることを念頭に推測は続けた。
 よって、古川九兵衛が幸長に仕えたとされるのは、幸長が家督を譲り受けたとされている一六〇〇年の後に、とそのような推測の元に流れを推しはかっていった。

 文献上に記されている史料をただそのままに読み流していれば、何の疑いも起きなかったのであろうが、こうして特定の人物を歴史の中に加え、その年代を追って掘り下げていけば、そこにはこのような不自然さが浮き彫りとなってくる。
 だから安田作兵衛が生前に三人と会っているということを考えれば、少なくとも次のような経緯になっていなければならないのである。

古川九兵衛が「幸長に召し出された」というのは、一六〇〇年に幸長が家督を譲り受けた後とされてからでは遅く、安田作兵衛とのかみ合いの中からの年齢推測からみて、「関ヶ原の合戦」の六年前(一五九四)でなければならない。

 六年前といえば古川九兵衛六十七歳(一五九四年)、安田作兵衛は六十九歳の時。勿論そのとき作兵衛はまだ存命であり、歿する三年前である。
そして「本能寺の変」の後十八年としてきたが、それは十二年後ということになる。このような形で古川九兵衛の幸長仕官時期や三者が京都で再会している時期を推測した。

 仕官した幸長に関しては十八歳の時になる。そうなると、大半の文献上にあるように「九兵衛の幸長仕官は家督を譲り受けた後」となっているが、当時幸長はまだ長政から家督を譲り受けてはいないのである。

 ※後になり、家督を譲り受けたのは十七歳の時と判明。ほとんどの史料からみて、歳が何歳の時であれ「家督を譲り受けた後」と記されているのには変わりはなくそれでいいのかもしれないが、なまじっか「関ヶ原の合戦以後」、とまで記されているからこそ、そこに問題が起きてしまったのである。

 また「明智三羽烏」が京都で再会している、ということを各史料は共に記述しているのであるから、その内容は事実として受け止め、当時幸長が家督を譲り受けているいないにかかわらず、この三者の再会は優先として取り上げていかなければならない項目となる。
 しかし幸長の家督相続が「関ヶ原の合戦以後」となっているが、それでは推測上どうしても年代的に合わない。そのため、その年代を無視し、三者の京都再開の時期を別な年として検討し始めた。

 以後からはその推測内容を記述してみる。

  安田作兵衛、朝鮮遠征に参戦

 ここでもう少し安田作兵衛の経緯を掘り下げてみる。すると前に推測した京都での再会時期を一五九四年としたが、それも再度不可能となってくる。
 それは秀吉による朝鮮遠征があり、作兵衛も参戦しているということにある。そして「碧蹄舘の戦い」では立花軍の中核として活躍、はなばなしい戦功を挙げる、と記されている。

 次に記した年代は立花宗茂の経緯であるが、その時期は次のようになっている。
一五九二年に朝鮮の役がおこると、立花宗茂も朝鮮に出陣することとなった。
一五九三年一月二十六日、碧蹄館で日本軍の先鋒を務め大勝するなど華々しい活躍をした。
一五九八年十二月四日、秀吉の死により宗茂は日本に帰国することとなった。

 これから見ると、先に見立てたこの三者が京都で再会している一五九四年とされるとき、主君宗茂は朝鮮に行っており、そして安田作兵衛も参戦していると記されている。
 となると、作兵衛は一五九二年から一五九八年までは、宗茂とともに朝鮮に行っていたことになるのだろうか。

 それを考えると、当初三者が京都で再会しているとしたのは一五九四年としたが、そのとき作兵衛は当然日本にはいないのである。だから、会うことはできないとなった。
 それでもこの三者が京都にて会える機会を優先的に考慮するためには、作兵衛が朝鮮に遠征するその前の年、一五九一年に設定しなければならない。

 ここでは当初から遠征に行っていたものとして推測することとしたが、しかし、始めから朝鮮へ遠征に行っていたのか、戦いが始まった後に行ったのか、そしてそれは何年の頃なのか。作兵衛においてはその年代的史料は見あたらない。ただ参戦しているというだけである


  京都での三羽烏の再会は一五九一年の時か

 三者が京都で再会した時期、それは前に推測したように一五九一年、「本能寺の変」より九年後となるのが妥当となった。古川九兵衛六十四歳。安田作兵衛六十六歳。

 各著者による史料に記されている内容からを推測しながら進めて来たが、それをことごとくくつがえし、結果的には前述のようないきさつにならなければならないということになった。
 「明智三羽烏」が京都で再会するのは「関ヶ原の合戦」の九年前。そして「本能寺の変」からは九年後。これがもっとも妥当な再会時期の年代となってくる。

 ここにおいて、次の推測をしてみる。一五九二年から一五九八年は「碧蹄館の戦い」で作兵衛は朝鮮にいる。そして一五九八年まで宗茂とおり、一緒に朝鮮より帰国したとする。
 しかしそうなると、その前の年一五九七年には、七十二歳となる作兵衛は亡くなっているのである。それを考えると、作兵衛はもっと早い時期に帰国していなければならないということになるのである。

  朝鮮遠征から歿するまでの五年間
     安田作兵衛が踏まなければならない経緯

 一五九二年に朝鮮遠征に行ったとし、そのときからを含めて作兵衛歿するまでの間五年間である。その間に、宗茂を致仕し、豊臣秀次に仕える。その後寺沢広高に仕えて後に仏門に入り歿している。
 作兵衛は、帰国後の数年の間にこれだけの経緯を踏まなければならないのである。とすれば、これからみて作兵衛の帰国はいつだったのか。

 まず宗茂に仕えた後、秀次に仕えていなければならない。それが、一五九八年まで朝鮮にいたとするならば、豊臣秀次に仕えるということはできないのである。
 秀次は、文禄四年七月十五日(一五九五年八月二十日)、秀吉によって自害を命じられている。
 だから一五九八年まで朝鮮にいたとするならば、帰国しても、すでに三年も前に歿している秀次に仕えるということはできないのである。

 それを考えると、作兵衛は遅くとも一五九四年までには帰国しており、たとえ数ヶ月ではあれ、自害する前の秀次に仕えていなければならない。
 その帰国の時期を推測するのに対し、次のような史料もある。

※朝鮮遠征にあたっては、兵士をはじめ、食糧・武器の輸送など、 水軍の充実が切望された。この戦いは継続困難となり、安治はじ め水軍の将たちも文禄三年(一五九四)三月十六日帰国。

 とある。これから見ると、作兵衛も遠征最後まで朝鮮に行っていたわけでもなく、前記のように途中帰国していたとも考えられる。
 そしてまたその時期は次ぎに推測したように、何とも恐ろしいほどの偶然なのか、秀次に仕官したと思われる年、一五九四年の帰国と重なってくる。
 その経緯が事実とすれば、作兵衛においては次のようであったとも考えられる。

 作兵衛 一五九一   京都にての再会
      一五九二    朝鮮遠征出兵
      一五九四    帰国 この後宗茂を致仕かそして秀次に仕える
                この年に古川九兵衛は幸長に仕官
      一五九五八月 秀次自害 その後に作兵衛は致仕か
      一五九六    寺沢広高に仕官 その後仏門に入る
      一五九七    歿
    
 また前記の経緯から見て、作兵衛が帰国してからの一五九四年から歿するまでの一五九六年の間なら、三者が京都にての再会が叶うかどうかを考えてみた。何も、遠征へ出立する前に会っていると記されている訳ではないのである。
 しかし、三者が京都で再会しているときは、作兵衛は宗茂に仕えていたときとされている。よってそうなると致仕した後となっては該当しないことになってくる。
 それから見ると、一五九四年以後となってからは、「明智三羽烏」の京都再会はないということに絞られてくるのである。

  幸長の家督相続は十七歳の時だった
       古川九兵衛の幸長仕官は一五九四年

 今まで幸長が家督を譲り受けたのは一六〇〇年の「関ヶ原の合戦」以後、と各史料文献等に記されていることを元に推測は進めてきた。

 ところが、その史料通りの推測ではどう考えても年代的に食い違いが生じていた。そのために、その記述されている史料による推測を無視してことごとく変更し、このようでなければならない、という自分なりに納得のいく年代的経緯にまでやっとの思いでたどり着いた。
 その結果、幸長の家督相続は「関ヶ原の合戦」の六年前なら妥当という結果になったのである。

 ところが、ある史料の中に驚くべき次ぎのような記述があった。それは今までに各方向からさんざんと推測してやっとたどり着いたその経緯が、そのままに答えとなって該当する史料があったのである。
 それには、幸長が家督を譲り受けたのは、六年前の頃であろうと推測したが実はそれより一年前、つまり七年前の時と記されていたのである。そのとき幸長十七歳。

推測その一.各史料により「関ヶ原の合戦」以後に幸長が家督を譲り受けてから古川九兵衛は仕官したと推定。その頃幸長二十五歳。
推測その二.安田作兵衛の享年と「明智三羽烏」の京都での再会時に年齢が合わない。そのために古川九兵衛の幸長仕官は、少なくも家督を受ける以前に仕官したと推定せざるを得ない。その頃幸長二十歳。

 今までの史料に沿っての推測ではつじつまが合わなく、その状態では安田作兵衛の年齢、そして古川九兵衛の「豊前の国」へ出立するという経緯から見て「明智三羽烏」は京都で再会するということはできないのである。

 そのためにいろいろな角度から検討し、その推測をくつがえしながらやっとの思いで納得のいく結果へとたどり着いた。それは古川九兵衛が幸長に仕えたのは幸長十八歳の頃ということである。
 それがなんと、そうして苦労してたどり着いたその結果を、そのままに答えとして当てはまる史料がここにあったのである。それが次の

推測その三.幸長が家督を譲り受けたのは文禄二年十月、と記されていた史料である。       幸長そのとき十七歳。

 次ぎに記述したのは、古川九兵衛の経緯を推測していく上で、本来ならばもっと早く知りたかった幸長の家督相続を記した貴重な史料である。

幸長は秀吉に目をかけられ、十七歳で甲斐の国に十七万石を与えられる。 
 浅野長政、文禄二年(一五九三)には嫡子の幸長領と併せて甲斐二十二万石を領するに至る。同年十月家督を幸長に譲った。

そしてもう一つ、
 長政の家督を継いだ幸長は、文禄四年(一五九五、十九歳)、姻戚関係から豊臣秀次事件の際に連座して、能登津向に配流されたが、翌年には前田利家の仲介で赦免されている。

 この二つめの史料からみても、文禄四年の時にはすでに家督を譲り受けていたということになる。たとえそれがその前の史料文禄二年ではなく、この四年の時であったとしても、それは「関ヶ原の合戦」後ではなく、それよりも五年も前なのである。

 一つめのこの史料からみれば、幸長の家督相続は文禄二年十月(十七歳)の時だったということになる。今までは各史料文献等には記述されていないその年代を、いろいろな角度から推測して組み立ててきた。しかし、納得がいかないままにことごとくその年代は打ち消されてきた。

 ところが、このようにはっきりとした年月を打ち出している史料が、文献として残されていたのである。今までのさんざんな苦労推測は何だったのか、という感じである。
 これによって、古川九兵衛が幸長に仕えたのは何年の頃なのか、これを基準に一気にそれらしく推測できるようになっていった。

 この史料には、幸長は「秀吉に目をかけられて」とある。この頃の歳までに、功績をあげるような戦でもあったのかどうかを調べてみた。
 勿論こればかりではないだろうが、次のような史料があった。

※豊臣恩顧の武断派で、徳川幕政下の広島浅野本家の礎を築く。十五歳で秀吉の小田原攻めに従軍し、武蔵岩槻城攻略で抜群の働きを見せ秀吉に賞される。 ※文禄二年(一五九三、十七歳)および、慶長二年(一五九七、二十一歳)、朝鮮出兵では渡航して功を立てる。

幸長は一五九八年(二十二歳)三月に朝鮮遠征より日本に帰国しているとある。そして甲府市古府中町の大泉寺に戦没将兵の慰霊塔を建てて法要をしている。

 しかしそれにしても、どうしてこの頃に家督を譲り受けた、という史料が今までに見つからなかったのか。数十冊に及ぶ史料はすべてが「関ヶ原の合戦」後という史料ばかりである。
 今まで推測していた年代年齢を再三くつがえし、一段と客観性に近いその推測が改めてここに始まった。

曖昧に記されている幸長家督時期

 この長政親子は歴史に名を残した人物である。それなのに、いろいろと史料は出版されてはいるが、内容的に統一されていないのには驚く。
 著書を出版するということは、真実性のある文献を調べ、ある程度は納得した上で編集するものであろうと思われる。

 各史料にあるように、古川九兵衛が幸長に仕官したのは、確かに「家督を譲り受けた後」とされるのには間違いない。しかしその時期は、一六〇〇年の「関ヶ原の合戦」以後ではなく、一五九三年という七年も前の時だったのである。

 長政より家督相続後とだけの記述とし、わざわざ「関ヶ原の合戦」以後、と記すようなことをしなければ、もっとスムーズな推測ができていたかもしれない。
 なまじっかそのように記されているからこそ、同じ家督相続以後であれ、あれやこれやと惑わされるという結果になってしまったのである。

 しかし、各史料がそのように記しているということは、それが事実であるからなのであろうか。そうなると、「明智三羽烏」における各武将への仕官年代や年齢、京都での再会時期、及び安田作兵衛の朝鮮遠征や歿した年代が歴史的にすべてが合わなくなってくるのである。
 もっとも、推測している年齢に当初から間違いがあれば当然合わないことになるのではあるが。

 また「翁草」等軍記には「明智三羽烏」が数年後に京都で再会している、と記されているが、それも「変」後九年後あたりまでならば、文章上まだそのような表現で使用されていてもいい数字なのかもしれない、と納得する気持ちもある。
 当初は「関ヶ原の合戦」以後として調べていたために、十八年間というあまりにも長い歳月から、不審を抱かざるを得なかったのである。

  個人推測解明が なぜ当然のように
    歴史年代の中に当てはまったのか

 こうして今までに解明した「明智三羽烏」の経緯を、公の史料に残されている年代を無視して調べていたにもかかわらず、結果的にはその歴史年代の中へと当てはまってしまったというこの当てずっぽうである推測が妥当とするならば、幸長が家督を譲り受けたとされている「関ヶ原の合戦」以後という、権威ある各著者が記した史料のその時期は、すべて間違っているということになる。

 各著書に記されている史料年代を、私ごときがくつがえすわけではないが、今までの幸長家督における推測の結果その年代経緯が、ある一つの史料の中に、納得のいくような形で充分当てはまることとなってしまったのである。

 幸長が家督を譲り受ける、という年代のそれだけのことに対してでさえ、ほとんどの各著書には「関ヶ原の合戦」後、と申し合わせたように記されている。
 それを見ると、各著者も自らが歴史をひもとき著作したものばかりではなく、他書を参考とするだけで検討をせず、そのままに記述していたのかもしれない、と思われてくる。

 そうなると、主に参考とされている著書が一カ所でも違いがあれば、次からの参考者はそれに気づかず、次から次とその違った年代を綴っていくようになる。
 大きな事件ならともかく「明智三羽烏」あたりの個人的経緯ならば、解明上間違っていても許される範囲内なのかもしれないし、またその経緯を調べる人もいないのであろう。
 先祖に古川九兵衛という武将がいたということから、その経緯を調べるための私がいただけなのかもしれない。

 だが、古川九兵衛を推測する上で、一番の疑問となった幸長の家督時期だけは、歴史上重要なものとしてしっかりとした史料になっていて欲しかったものである。

 史料文献の信憑性は確実なものとは言えない

 我々が読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるのだろうが、厳密にいうと決して事実そのものではなく、一般的に広く認められているというだけの、幾つかの判断であるというだけのものなのかもしれない。

 私が祖古川九兵衛の経緯を創造して書き上げているのも、推測の中でのみ存在するものである。ある程度は歴史の史料や古文書にそって推測はしているが、それは私だけが『作った』ものであり、そうして解き明かしたものは、ある意味個人的に歴史を作っているということであるとも言える。                                   
 どの世界にも「権威」と呼ばれる人たちがいる。学問の体系を創り出すのもその道の権威者たちであり、まずはそのような彼らを疑う人は少ないであろう。
 しかし権威者が言うことがすべて正しいのならば、その人の言いなりとなってしまうのである。
 権威のない私が古川九兵衛の経緯をひもとき、それが間違いなく正しく解き明かされたものであっても、歴史学も権威もない私によって作りだされている歴史というだけで、それは信用できる歴史ではないのである。

 四十数年とかけて、私がまとめていながらこのようなことをいうのも無責任かもしれないが、だからこの著書を読んでいる諸氏もまずは信じることをせず一考したほうがよい。
 ああそうなのか、と私のひもといた内容を鵜呑みにはしないことである。

 医学は一部の人間の利権のためにそれを歪めることは人命にかかわるために決して許されることではない。一方、私のような者が歴史をひもとき、歪めたところで人命を脅かすことはない。
 しかし、それによって一部の人間の名誉を著しく損なうとともに、後世には誤った史実を伝えることにもなる。
 一方では今までの著者を非難していながら、そんな虚構の歴史を私も書き出しているのかもしれない。

 だが、史料によっては明らかに一般的な事実として受け止めがたいものもある。著者はそれを不思議に思わず、承知の上で記述しているのであろうか。
 歴史的事件の解明を「著作者自身の推測」とうたって記述しているのならばともかく、年号までをも曖昧なままに掲載するということには納得しかねる。
 それを考えると「その史料の信憑性」ということも、ある程度は疑っていかなければならないこととなる。

 歴史をひもといていくには、「過去の史料によっての推測」ということに頼らざるを得ない。数代前の出来事ならば古老の人が知っていたり、代々伝わる言い伝えなどで真相を解明することも可能かもしれない。
 しかし、織田信長や明智光秀のいた四百数十年以上にもなる戦国時代当時では、歴史が古すぎ、それこそ史料に頼らざるをえない事柄なのである。
 そうなると、歴史をひもといていくには、数冊の史料だけで信じることをせず、数多くの史料収集を必要とし、いろいろな角度から検討していかなければならない、という必要性が認識させられた。

 まず史料はまちまちであるということを知り、最初にある程度の史料を収集して対応していれば、この祖古川九兵衛の幸長仕官についても、あれやこれやと錯誤せず、その年号さえしっかりとしていれば、たとえ歴史に通じていない我々でも、ある程度は流れに沿った推測ができるはずなのである。

 もっともこの古川九兵衛に関するのみにかかわらず、それほど重きを置かれていない人物の歴史というものは、全然分からない内容をいろいろな角度から順次に推測していくほかないのであろう。
 何年の頃にこのようなことがあった、とだけしか記されていないような、ほんの些細なたった一つのその記述経緯から推測は始まっていく。
 だから、その場にならなければ考えられないこともあるのは事実である。

 実際私がこうしてひもといた祖古川九兵衛の経緯や、子孫四代までの出生においてでさえ、すべてが古川本家に残る古文書からの推測で解き明かしたものでしかなく、それこそ信憑性がないと言われるのかもしれない。
 しかしそれでも、それをいかに歴史の中に当てはめることができるのか、年代的流れの中で解き明かすことにある。

  浅野幸長と古川九兵衛の接点 その二

 幸長が家督を譲り受けたと記されている史料と、今まで個人的に推測し続けてきた年月とが驚くほどに一致する結果となって表れた。
 それは歴史上の流れと合わせ見て、確実性のある内容としてとらえてもまずは間違いないのではないか、と自負するほどの答えにも匹敵するように思われる。
 そしてここに、九兵衛と幸長との関わり合いの年月を見直し、その経緯を改めて結びつけていった。

 その結果を幸長の経緯に記されている史料へと当てはめていけば、何と幸長時代に不明とされていた祖古川九兵衛の経緯が、次のように驚くほど明確に浮かび上がってくる。

一.文禄二年(一五九三・幸長十七歳)父と共に甲斐国府中(山梨県甲府市)を与えられる。
二.文禄二年十月、幸長は家督を譲り受ける。
三.文禄三年、九兵衛は幸長に仕官したと推測される(幸長十八歳)。
四.文禄四年(一五九五・幸長十九歳)、仕官した幸長は関白豊臣秀次の失脚に連座させられ、能登(石川県東部)津向に配流となる。
五.この幸長配流に伴い主君を失った九兵衛は、文禄四年の時に幸長を致仕していると思われる。数字の上だけを見ても九兵衛一年の仕官である。

 今までの推測の中で、九兵衛が幸長に仕えたのは数ヶ月くらいと見ていた。その理由も、この年代の中に当てはめ、幸長に仕官し配流となるまでの間と見れば、納得のいく答えになるのである。

 これから後「どの武将に仕えたかは記されていない」と各史料に記されているように、九兵衛の足取りは公的文献上これを持って不明となる。

 もし常陸の国長松院で作成された古川家古文書がなければ、九兵衛のその後の経緯は以後完全に途絶えることとなり、古川本家とのつながりも推測が不可能となっていたはずである。
 
 それを考えると、石神城石神長松院にて古川家古文書を作成し、後生となる現在を見越して残し続けてくれたということは、その代々の先祖の知的行為は絶大なものがあり、その思いを考えると胸を震撼させられるほどである。

 これだけの歴史をこうして先祖が残し続けてきた古川家の系図作成を絶やすことなく、果たして現在以後の子孫はこの後引き継いで行くことができるのであろうか。
 子孫繁栄を願い、古川家を守りたててきた今までの先祖の気持ちを考えれば、現在を生きている我々の気持ちがどうのこうのということにかかわらず、絶対に絶やしてはいけないことであろうと思われる。
 それが代々を残し続けてきた先祖に対しての供養であり、古川家の子孫としての責務であり、そして誇りに持つべきことであろう。

 推測に戻るが、配流された幸長は、やがて前田又左衛門利家のとりなしもあって翌年まもなく復帰した。
 これは、次の史料から見て、前田利家の五女が幸長の婚約者だったという経緯からのとりなしなのかもしれないと思われる。

※永禄元年(一五五八)、利家(二十二歳)まつ(十二歳)と結婚。この年、又左衛門と称す。翌二年(一五五九)六月、長女幸生まれる。
※与免:前田利家の五女。浅野幸長婚約者。天正五年(一五七七)生。 文禄二年(一五九三)六月、重病にかかり歿。享年十七歳。

六.「文禄・慶長の役」に父と共に軍を率いて出陣、慶長二年(一五九七・幸長二十一歳)には蔚山倭城(現在の蔚山広域市内)に籠城し、奮戦している。

浅野幸長  十七歳 文禄二年十月(一五九三) ・家督を譲り受ける 
古川九兵衛 六十七歳 文禄三年(一五九四) ・十八歳の幸長に仕える    
         六十八歳 文禄四年(一五九五) ・幸長を致仕  

 前記した年月が、幸長と九兵衛二人の主従関係の接点基準となる。そして「その二」として推測した文章の年代を、より客観性に富む次の「その三」として書き換え、改めてその経緯を追った。

その三 幸長が長政より家督を譲り受けたのは十七歳の時とある

 「本能寺の変」において歴史に名を残した明智家家臣・武将祖古川九兵衛。公の各史料文献上には「明智三羽烏」と称され、古川家古文書には「明智光秀三槍の一人」として記されている。
 編集に際し、今までにいろいろと推測してきたが、各史料からの内容をふまえて検討していけば、古川九兵衛の経緯は「本能寺の変」以後、次のような年代の流れの中で「常陸の国久慈郡世矢村」に移り住み、生涯を終えたと推測される。

 「山崎の合戦」で明智家は滅亡。古川九兵衛が浅野幸長に仕えたとされるのはその「合戦」より十二年後、幸長十八歳の時。それは一五九三年(文禄二年)十月、十七歳の時に父長政より家督を譲り受けての翌年一五九四年(文禄三年)のことと推定された。

 今までは、通説にあるように、九兵衛が幸長に仕官した後に「明智三羽烏」は京都で再会している、ということをふまえて考えてきた。
 そしてそれは、各史料文献等にあるように一六〇〇年の後としていた。だが、幸長が家督を譲り受けたとされるその九年も前、一五九一年の時でなければ年代的に合わないとなったのである。そのとき古川九兵衛は六十七歳。

古川九兵衛 一五九一 六十四歳 京都にて再会
 浅野幸長  一五九三  十七歳 長政より家督を譲り受ける
 古川九兵衛 一五九四 六十七歳 幸長に仕官 
       一五九五 六十八歳 幸長を致仕 「豊前の國」へ 出立     
一五九七  七十歳 「豊前の国」から「常陸の  国」へ出立 世矢村着
 安田作兵衛 一五九七 七十二歳 歿 淨泰寺に埋葬
 古川九兵衛 一六〇二 七十五歳 「常陸の国世矢村」にて歿  古川家北浦墓地
 
 この史料内容から見れば、九兵衛の幸長仕官を今まで模索しながら推測していたどれよりも自然と年齢的年代的にもつじつまが合い、おのずとそのままに確実性のある答えとなって表れてきた。(仕官時の高齢不審は追求しない)

 一五九三年十月、幸長が家督を譲り受けた翌年に九兵衛は仕官。
 一五九五年、豊臣秀吉により豊臣秀次は失脚させられる。
 それにより連座させられた幸長は能登(石川県東部)津向に配流となる。
 主君を失った九兵衛はその年に幸長を致仕して「豊前の国」へ出立している。

 これから以後の経緯が、古川家古文書に記されているように、九兵衛の足取りとつながっていくのである。

 このような結果を見れば、あれやこれやと史料内容を検討して推測することもなく、その答えは自ずと年代までをも導き出して表れてきた。
 古川九兵衛が「幸長に召し出された」というのはいつの頃であったのか。「致仕した」というのはいつの頃であったのか。さんざんと推測したその年代が、驚くなかれ幸長の史料経緯の中にすっぽりと当てはまってしまったのである。
 そして幸長仕官のその時期は「本能寺の変」の十二年後という結果となった。

     本能寺の変 一五八二 五十五歳
     幸長へ仕官 一五九四 六十七歳

 一六〇〇年に、幸長が家督を譲り受けたとされる年代を基準として今まで各史料上の流れをみていた。そして古川九兵衛は「本能寺の変」より十八年後に幸長に仕え、後に「明智三羽烏」と称された三者が京都で再会している、として推測していた。

 よって、古川九兵衛が一六〇〇年以後に幸長に仕えたとされるまでの十八年間は不明としていたが、「本能寺の変」以後九年目にして「明智三羽烏」は京都で再会しているということになる。
 そのようなことを考えると、この三者はお互いに消息がつかめないという状況ではなかったのかもしれない。
 史料の上では京都で再会しているという一度だけしか記されていないが、案外この他にも会っていたのかもしれないと思われる。
 
 今回、幸長が家督を譲り受けたのは一六〇〇年の後ではなく、逆にそれよりも七年も前にさかのぼる一五九三年文禄二年十月、十七歳の時であるというはっきりとした年号を記した年月が分かった。
 各史料により推測しながら進め、結果的には「その三」としてのこのようないきさつにたどり着いた。それから見ると古川九兵衛が世矢村で歿するのは、当初幸長に仕官してから二年後としていたが、そこには八年の歳月があることとなった。

 古川九兵衛は文禄三年(一五九四)六十七歳で幸長に仕えたが、幸長の配流により致仕。その後「豊前の国」への移動も含め二年という期間を推測した。
 そして慶長二年(一五九七)七十歳の時に「豊前の国」を出立し、同じ年に「常陸の国久慈郡世矢村」へ移り住んでいる。
 その後五年間、世矢村での生活を送り慶長七年(一六〇二)に七十五歳で歿している。

 幸長における歴史的史料に信憑性がなかったためとはいえ、「その三」としての古川九兵衛のたったこれだけで収まってしまう経緯を調べ出して推測するに至るまで、それこそ四十数年という歳月の労を要しているのである。
 
 これまでに掲載したのは、武将古川九兵衛として「本能寺の変」において歴史に名を残し、「常陸の国久慈郡世矢村」にて歿するとされるまでの経緯として推測したもののうちで、それらしくつじつまが合い、客観性に富んでいると思われる内容としてまとめ上げたものである。

  祖古川九兵衛の墓石は
    本家北浦墓地先祖代々の墓石の下か

 調べ出すことのできない古川九兵衛親子数代の墓石。そして見当たらない先祖の墓石数基。私が子供の頃、それらの倒壊していた墓石は脇に寄せられてあった。それらのすべては一箇所にまとめられ、埋められたという。
 その埋められているかもしれないと思われる祖古川九兵衛や先祖の墓石の上には、今は「古川家先祖代々」としての墓石が建っている。

 探し求めていた先祖、古川九兵衛としての名が刻まれた墓石を確認することもできず、今は、先祖代々としての墓石の下で、四百年もの間子孫古川家の礎となって九兵衛は眠っているのかもしれない。

 「祖古川九兵衛」 最後に・・・

 古川九兵衛に、少しでも該当すると思われる史料があれば、まず各県の歴史館に連絡を取り、数年に及び数多くの史料を収集し続けた。
 茨城という他県からの突然の依頼でありながら快く返答し、そしてまたそれらに該当する史料を後にまで探して送付してくれる。そのような各歴史館の皆様にはありがたい気持ちでいっぱいである。
 その史料の中から、祖古川九兵衛を推測するに該当すると思われるものを取り上げ、前述までのような内容にまとめ上げた。
       
 古川家古文書に残されているのは「明智光秀三槍のひとり」としての巻頭言だけでしかない。よって、どんなに史料を収集しひもといていったにしろ、すべてが推測の状態のままでしか過ぎない。

 当時の年代においては勿論のこと、情報の時代といえる今後でさえ、たとえ二〜三百年くらい前の先祖を調べ出すにおいても、案外個人的には無理なことなのかもしれない。
 せめて調べることが出来たとしても、せいぜい曾祖父の頃までであろう。それも古川家のように系図が残されているからこそ分かるのであって、その史料がなければ、自分の直系ではあれ推測は不可能であろう。

 しかし、中下流武士だったのだろうと思われる古川九兵衛において、公的に残されているこれ以上の史料収集は考えられない。
 逆に、これだけではあれ、よくこのような史料があったものだ、と思った方がいいのかもしれない。

 「明智三羽烏」と称された古川九兵衛を初代とし「常陸の国」においてその系図古文書が残され続けてきたということは、現代において誇りに思わなければならないことであろうし、それは継承し続けた先祖が立派だったからであると賞賛することに他ならない。

 当時の頃の年代、生まれたのはいつなのか、そしてまた享年までをも記されてはいないという史料実態がほとんどである。現在ならば、たとえ百年二百年過ぎたとはいえ、そのどちらかは調べ出すことはできるであろう。
 だから、小学校に上がった、中学生になった、ということだけしか記されていなくても、それらを計算してその年代や歳までをも確実にしていくことはできるはずである。

 四十四年とかけてさんざんと調べ続けてきた公的史料や当古川本家の史料。まだまだ見落とされているものはたくさんあるはずである。
 しかし、今まで調べてきた史料の中に、私にとってこれ以上に該当する有力な内容のものを探し出すことはできなかった。

 ということは、これから後、歳月が経てば経つほど不明な部分が増え、不可能となってくることであろう。
 そして各県の歴史館からも史料不足のため推測は不可能であるという答えが出されるようになってきている以上、一般中下流武士としての先祖をひもとく史料収集は、もうこれが限界なのであろうと思われる。
 だがそれとは逆にこれから先、いろいろと歴史も解明され、案外より事実が解き明かされるという可能性があるかもしれない。

 たとえ推測の結果ではあれ、古川氏姓発祥以来七百三十年という年代を継承された古川家の歴史。これを、より以上の知識で解明し、何らかの史料として、今後歴史の好きな推測者によって生かされていけば幸いであるし、またそう願いたいものである。

 自分の知識の中でこれまでに調べ続けてきたが、納得のいくその結果にたどり着くことはできなかった。
 そうして答えを解明することができなかったということは、古川九兵衛においてさかのぼる推測は、残念ながら到底無理だったということになる。

 無理だったというよりも、最初から私ごときが四十数年くらいで解き明かせるほどの歴史ではなかったのであろう。
 その結果として、それはこのように、限界という形で終わらざるを得ない状況となってしまった。とにかくさっぱり分からんっ。

 それでもこの四十四年もの間、よくも投げ出さずに積み上げてきたものである。テストで百点をとることや年号を暗記することが目的ではなかったとはいえ、先祖の気持ちを理解して感性を豊かにし、人生を味わい深くするという心持ちをもったような気がする。

 古川家の歴史にかかわるひとつひとつを解き明かし、そしてまた歴史書を読んで史跡を知る。何度行っても変わりはないと分かっていながら三百五十年と続く本家の墓に足を運ぶ。そこから得られるヒントも多かった。

 墓を訪ねたり、古文書を読んでいるということは、当時の先祖の思いの中に入るということにほかならないような気がする。その先祖が存命のとき、どのような人生を送っていたのかを肌で感じることができる。それが先祖のいる墓にいるときのような気がする。
 小さな墓の中に代々の先祖がねむり、そしてその墓には三百五十年に亘る古川家の歴史が凝縮されているのである。

 その思いを積み重ねていくと、過去と現在が溶け合っていくような気持ちになる。そうしてその歴史が一つ一つと解き明かされるたびに、人生が大きく変わりだすような気がする。それは決して大げさというものではない。

 それでも六十歳となった自分の年齢や、費やされていく年月ばかりが気になり「まとめなくちゃっ、まとめなくちゃっ」、と探し求める気持ちばかりが空回りしている私に、

 「歴史も満足に判らぬ員己が、
     わしらを追っかけ回しても、そんなに甘くはないわいっ」

と、毎日のようにご先祖様の高笑いが響き渡っているような気もする。

 どれっ、またご先祖様のお墓参りにでも行ってくるか。少しは頭が冷やせるかもしれない。それに明後日は秋の彼岸の中日でもあるし。そうしてお墓にいると、何となく気持ちが落ち着くのだから不思議である。そして本家の周りを歩くとき、四十数年も前の自分に返ることができる。

あとがき
 古川家古文書には記されていない祖古川九兵衛の経緯。その内容解明を各文献史料等により参考とし、まとめ上げた。これはすべて推測でしかないが、それらしく推しはかれば、古川九兵衛においての「本能寺の変」以後はこのような年代的経緯が浮かび上がる。
 またこうして仕上がった当本は、九兵衛においてのみの経緯であるため、このような些細な内容でしかない。今現在も、古川九兵衛について推測し続けてはいるが、以後原本のみの解明追加のみで、借用している当ホームページに変更記載することは考えていない。
 
 古川九兵衛を祖とする末裔は、全国各地に在していると思われる。しかし、九兵衛を祖とする直系の系図は、古川本家においてのみ残され続けてきたものである。たとえ末裔ではあれ、その経緯は分家としての各諸氏においては解明出来ない経緯であると思われる。
 当初から綴られてきた実際の古文書系図を私は見たことはないが、九兵衛の末裔である各諸氏には、九兵衛のその後の経緯を、断片的ではあるがここに調べ上げた史料で目を通していただきたい気持ちである。そしてまたこの九兵衛において、各諸氏にて知り得ていることがあれば、アドバイスをお願いしたい。
 この文章は個人執筆のみにより、知識者や学識者による校正を依頼しているわけではない。よって誤字や文章構成等その他に誤りや不審があるもご理解をいただきたい。

 最後に、この「明智光秀はお嫌いですか?」というホームページに巡り会い、そして使用させていただきましたが、これまでの間「つみれさん」には何一つ苦情も寄せられませんでした。そのお気持ちに感謝いたします。
 明智光秀に直接関わる内容ではありませんでしたが「明智三羽烏」として光秀に仕えた祖古川九兵衛の子孫として投稿させいいただきました。
 今後、この「つみれさん」のページに興味を持ち、投稿していただける方が増えますことを祈念いたします。

 「祖古川九兵衛の推測」以上
               
                 古川家祖古川九兵衛推測経緯
                   「本能寺の変」以来四百二十五年余の時を経て                               史料推測 古川員己

             

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明智光秀はお嫌いですか?(ニヤリ)
戦国のダークヒーロー明智光秀、いざ本能寺へ!

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【根城】埼玉県
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【役職】野武士(WEBデザイナー)
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